十字架の言葉は愚かであるが、救いに与る者には神の力である
2018年1月21日 礼拝メッセージ 【第1コリント 1~2章】
2:1兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。
2:2なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。
2:4わたしの言葉も わたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によった。
2:5それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためである。
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今年度の教会聖句は、タイトル件名の第一コリントから取っています。
改めて「十字架の福音」が私たちの救いの土台であることを確認しつつ歩む、ということが今年のテーマです。
「十字架」とはローマ帝国における最も残酷な極刑です。十字架は今でこそアクセサリーのように使われていますが、当時は「ギロチン」や「電気イス」のような死刑の道具だったのです。
聖書の福音とは、
十字架でキリストが死刑にされたことが、神と人の仲保者であるキリストが、
全人類の負うべき罪過(償われなければならない堕罪の責任)を連帯して背負い、本来は私たち自身が神様から直接受けるべき堕罪の結果としての「裁き」を身代わりに受けて下さったことで、
神様の「義」と「愛」が共に徹底された(堕罪し悪に陥った者への裁き=義の回復と、失われた人を救い出したいと憐れまれる神の愛が、いずれも達成されたのが、キリストの十字架である)というのが、聖書の「福音」です。
また、キリストは「罪を犯さず、罪によって汚染されていない唯一の人間」であり、かつ「神である方」ですから、キリストの内には棄損されていない「完全な神の像」が宿されています。
十字架のキリストを救い主として信じるものは、聖霊を通して、この復活のキリストに結び合わされて、キリストが十字架において死なれて、新しい霊の命に復活されたのと同じ「蘇りの力」にあずかることになります。
信仰によって、聖霊によって、キリストに結び付けられることで、それまでの「罪に歪められた古い性質」に死んで、「罪に汚染されていない神の像」(潔められた新しい命)へ回復して頂くことが可能となったのです。
こうした「十字架の福音」は、まだ救いに与っていない人々、神を信じていない人々には、愚かに思えることでしょう。
パウロは、学術都市アテネに赴いた際に、なんとか知識人やインテリを信仰に導こうとして、かなり修辞学を駆使した説教を広場でしました。
しかし、世の知恵からすれば「十字架における身代わりの死」や「死からの復活」といった事柄は、とうてい理性的・合理的に納得ができることではなく、アテネの知識人たちから使徒パウロは一笑に付されてしまいました。
つまり、必ずしも何か知的に、レトリックを駆使して、インテリたちが合理的に納得するような仕方で語ったところで、そうしたことによっては人は信仰には導かれない、ということです。
そもそも、神について、救いについて、聖霊について、といった福音の真理は、この世の論理や理性的推論や合理性で理解できる次元の事柄ではないのです。
世の論理の次元を大きく超えた「天の御国」から次元を裂いて突き刺さるようにして、私たちの理解しえない神秘が語られるのが「福音」の本質なのです。
だからこそ、パウロもそれ以降は、あえて福音を世の理性に合わせてレトリカルに語ろうとはしませんでした。
世の合理性から見れば「愚かに見える」ような、ストレートな福音、十字架の贖い、の言葉こそが、人を信仰に導くための力となるのです。
神の愚かさ(福音宣教の愚かさ)は、世の人間がもつ最大の英知よりも、はるかに偉大です。私たちは、その福音を恐れず、世に恥としません。
むしろ、次元を超えて示された「神の真理」こそが、私たちを照らし出して、人の愚かさ、人の堕落を明らかにして、救いの福音へと導くものであることを信じるのです。