福島キリスト教会 から 聖書のメッセージ

日曜礼拝で語られている聖書からのメッセージをUPしています。

律法から福音へ (ローマ人への手紙 3章21節)

使徒パウロが書いた「ローマ人への手紙」は「救い」「福音」とは何か?ということが異邦人読者に向けて丁寧に順序だって説かれている書簡です。

信仰の養いのためにも重要な内容が含まれており、折りに触れて何度も繰り返し読み返し、読みを深めていって頂きたい書の1つです。

 

私たちプロテスタント教会は、ルターやカルヴァンらの宗教改革から始まったわけですが、その際のキーワードが「信仰義認」(信仰によって義と認められる)でした。

ローマ書3章から5章にかけて、この「義とされる恵み」が最も的確に表現されており、福音の原点を確認するのに最適の箇所の1つと言えます。

 

---------------------------------------------------------

<ルターの信仰体験>

中世後期のウィリアム・オッカムの神学は、救われるためには、神の前に立つ個人が、意志と能力の限りを尽くして善い行いに努め、神に受け入れられるレベル(義とされる基準)にまで到達すべきであるという救済論を説いていた。

 

この影響を受け、ルターは修道士に求められる「完徳」に至るために模範生的に苦行と禁欲に励んだが、それに励めば励むほど、己の罪深さに対する懐疑心に悩まされ、心の葛藤に追い込まれていった。告解聴主(修道院長)シュタウピッツの慰めも虚しく。

 

ヴィッテンベルク大学教授として第1回・詩編講義(1513年冬学期~1514年冬学期)、ローマ書講義(1515年夏と冬学期)の準備中、修道院の自室におけるいわゆる「塔の体験」によって信仰義認という新しい認識を持つに至った。

 

それまでのルターにとって「神の義」とは、罪人を裁く義(能動的義justitia activa)であると思っていた。

ところが改めて気づいたことは、神の義は罪びとに贈り物として与えられる義(受動的義justitia passiva)だということ。この義は、人間の外から来る。

 

詩編第31編2節「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、あなたの義によって私を解放してください」という言葉、ローマ書3章21節などがまさに「信仰による義」が示されている箇所であった。

 

<ウェスレーの信仰体験>

 

若い頃のウェスレーは、ホーリークラブを組織して、きよく正しく信仰者としての霊的リアリティを求めていた。その当時の救済論は、十分に神の御前にきよくなることが、義と認められる条件であると考えた。つまり、聖化を義認の条件のようにみなしていた。

 

ジョージア宣教での挫折>

父の死、エプワース司祭職の拒否、オクスフォードへの固執

「自分の救いが確かなものであるか」を確証するために新天地での経験を求める。

アメリカの先住民への宣教、サヴァンナという田舎町の司祭を任じられる。

 

(1)嵐の航海における死の恐怖 

 ⇒ 救いの確信の問題、真の平安が無い自分を発見する

 ⇒ きよめの証しと思ってきた「死を前にした平安」がない

 

(2)モラビア兄弟団(ルター派敬虔主義)との出会い

 ⇒ シュパンゲンベルクの問い:「キリストがあなたを救われたことを知っていますか?」「自分が神の子であり、神と和解して赦されていることを、あなたの霊は証ししていますか?」 

 

(3)ソフィア・ホプキンスとの恋愛事件

 ⇒ 婚約拒否、他の男性との婚姻、聖餐式から排除、告訴されるまでこじれる。自己の内にある罪性・自己中心性の根深さを自覚する。

 ⇒ 逃げるようにしてイギリス本国に帰るしかなかったウェスレーの心中

 

自分の善い行いで飾ろうとしても、自分の奥深い罪の性質、自己中心性、情念はどうにもならず。

「私の内には何もない。神の前に義を誇れるような者ではありえない」

 

(4)アルダスゲイト体験

モラビア派の集会において、ローマ書「私たちがまだ罪びとであったとき、キリストが私たちのために死んで下さった」(5:8)という御言葉が迫ってくる。

 

自分の罪が赦され、キリストによって救われていることを体験する。

「心が不思議と熱くなるのを覚えた」⇒ 「救いの確証」が与えられた

 

---------------------------------------------------------

<律法の段階から、福音の段階へ>

 

このように、ルターとウェスレーに共通しているのは、まさにロマ書3章21節以下に記されている魂の歩みではないだろうか。

 

「律法の試み」・・・自己義認、努力して義の基準を満たして、救いを認めてもらおう

「福音の受容」・・・自己放棄、キリストの贖いに信頼して、恵みの義を頂く信仰

 

わたしたちも信仰と福音の原点を、確かな信仰の体験をともなって得させてくださいますように、聖霊様に祈り求めて参りましょう。