福島キリスト教会 から 聖書のメッセージ

日曜礼拝で語られている聖書からのメッセージをUPしています。

2018年 クリスマス礼拝 メッセージより(ルカ福音書 2章前半)

ベツレヘムへの旅>

ダビデの家系であったヨセフは、皇帝アウグストゥスの戸籍登録令のため遠いベツレヘムの町まで行かねばならなかった。140kmの道のり。身重であったマリヤを連れての長旅であった。

しかし、ベツレヘムに着くと、すでに公共の施設や宿は満室であった。ローマ兵、行政官、他のユダヤ人たちで溢れかえっていた。

「宿屋には、彼らのいる場所がなかったからである」(2章67節)

空いている場所と言えば、粗末な家畜小屋ぐらいしかなかった。

「いと高き神の子、救い主キリスト」と御使いに賛美される方が、貧しく汚くみすぼらしい家畜小屋で生まれ、動物のエサ入れ(石をくり貫いた飼葉桶)に寝かされた。

神であるお方が、罪深い人間の世に来られ、しもべの姿となり、私たちと連帯してくださる。

 

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クリスマスは、神の受肉インカーネーション)を喜び祝う祭典であるが、この受肉」はどのような意味を持っているのか?ということを今日は掘り下げてみたい。

 

<キリストによる救い=クリスマスの福音とは何か>

 

聖書の中心はこのイエス=キリストである。

キリストとはどんな存在なのか?

歴史上の偉人の1人、立派な教えを説いた人、高潔な生き方をした偉人といったイメージが、日本人の一般的な印象ではないだろうか。

聖書が伝える最も大切なことはキリストが「神であり、人である」ということである。(参照「カルケドン信条」)


世界宇宙を創造し、人間をも創造された神ご自身が、人となるために地上にお生まれになった。「神ご自身にして同時に人でもある」という「特異な存在」(=仲保者)がキリストである。

 

なぜキリストは地上に人間として生まれて来られたのか?

それは私たち人間が抱えている「罪からの救い」のためである。

 

聖書が言っている「罪」とは、私たちが普段使っている法律や道徳を犯したという「罪の概念」とは少しズレている。聖書のいう罪とは、

 

(1)創造主である唯一の神との正しい関係性が失われていること、それによって、(2)本来あるべき「人間としての正しい状態」から堕ちてしまっていること、である。

 

(1)神との断絶=創造主から離反し、関係が破綻してしまった =罪過・咎

(2)「神の像」の破損・喪失 ⇒歪んだ存在に堕落している。霊的に腐敗している =罪性

 

「創り主である神を無視し、神との正しい関係を持たないで、自己の欲望実現だけを求めて自己中心に生きていく」⇒それは「創造当初の人間のあるべき本来の姿」から逸脱している。単に人間社会の法律や道徳を破ったどうこうの次元の話ではない。

 

罪の語源は「ハマルティア」(的外れ)

歪んで曲がっている弓と矢を使って撃っても、必ず的から外れて違った方向に飛んでいく様子に似ている。それが堕罪した人類の現状である。

 

私たちがそこから救われるためには


(1)失ってしまった「神との正しい関係性」「つながり」を回復させること ⇒「和解」

(2)失ってしまった「人間としての本来の姿」(神のかたち)を回復すること ⇒「再生」

この2つのことが必要となる。(プロテスタント神学では「義認」と「聖化」と呼んでいる)

 

しかし、いずれも罪性にどっぷり浸かっている人間が「自力」で解決できる次元の問題ではない。

 

なぜなら、神から離反する原因を作った張本人は私たち人類自身であり、すでに罪性にどっぷり汚染されて霊的に腐敗してしまっている人間が何をしたところで完全な「罪の償い」(補償)、「和解のための埋め合わせ」をすることはできない。

 

人間が自分たちが考えるどんな善行や功徳を積み上げたとしても、それによって神との和解のための完全な補償(償い)を満足させることはできない。

ましてや、すでに失ってしまった「神のかたち」(神の霊)をどうやって人間自身の力で再生するというのか?


⇒ ここにキリスト教と他宗教の「救済論」の決定的な違いがある。

仏教などの他宗教の大半は「自力による解決」を説いている。
経典に書かれている、教祖が説いた教えや実践倫理を行うことによって、自分の問題を自分で頑張って解決できる、と考える。

 

教祖が説いた「高尚な教え」を学び、頑張ってそれを実践すれば、神様をも満足させられる「正しさの水準」に到達できると考える。
(例)日本人の死生観=三途の川、地獄の裁き、善行悪行の報い、極楽と地獄、などはそうした救済理解から成っている。

 

この「自力救済」の枠組みで「宗教」を考えているうちは聖書の本質が分からない。⇒ 日本はクリスチャン人口が1%未満だが、日本人が

キリスト教を理解しにくい理由の1つは「救済論の違い」「宗教観の違い」にある。

 

キリスト教は他宗教とは<まったく違うタイプの救済論>で成り立っている。キリスト教の本質は「交わりに基づいた救い」にある、と言ってもよい。キリスト教とは<交わりの宗教>である。

 

この世に来られた神である「救い主キリスト」を信頼して<交わる>人だけが、神様との蜜月の関係(つながり)を回復することが赦される。⇒「和解/義認」

 

さらに、罪に汚染されておらず、完全な「神のかたち」を体現しておられるキリストと、深く結び付き<交わり>を重ねることによって、

霊的に腐敗している私たちの内にも「神のかたち」が再生されていく ⇒「聖化/再生」

(例)妖怪人間ベムが「まことの人間」に新生するようなものだ

 

⇒「受肉」の重要な意義は、最初の人類(アダム)が失ってしまった「神のかたち」を御子キリストが人として来られることで再びもたらして下さった、という点にある。

(cf:ギリシャ正教神学者アタナシウスは「神が人になられたのは、失われた神性に人が再び与るようになるためである」と表現した)

 

救いにあずかるかどうかの鍵は、この世に来られた神であるキリストに、私たちが結び付いて<交わり>を持つようになるかどうか?という一点に掛かっている。

 

聖書は、私たちをこの「救い主キリスト」に出会わせるための紹介所のようなもの。(キリストを指し示し「証しする」ものである)

他宗教の経典がそうであるように、なにか立派な教え、高尚な倫理道徳が書かれている書物ではない。(⇒ 書かれている教えと実践リストを達成することによって自力救済されるという論理構造にはなっていない)

 

聖書は、救い主であるキリストの存在を知らせ、キリストを私たちに紹介し、キリストとの「交わり」が成就されるよう導く案内役のようなものである。

 

だから、いくら聖書を読んでも、肝心のキリストとの「人格的な交わり」、救い主キリストへの「信頼・つながり・交わり」が生まれてこないのであれば、単に読み物としての読書をしているというだけのこと。まったく「魂の救い」に与ることがない。

 

クリスマスは、この世に「神」ご自身が「御子キリスト」(人間)となって来られたことを喜ぶ日である。

最近はサンタクロースばかりが有名になってしまって、クリスマスの中心が何か?ということがかえってわからなくなりがち。サンタクロースのモデルである聖ニコラウスにとって予測もしなかった事態だろう。天の御国において聖ニコラウスは非常に気まずい状態にあるのかもしれない(笑)


しかし、人類にとっての最大のクリスマスプレゼントは、この御子キリストご自身である。

 

<夜番の羊飼いへの御告げ=すべての民に示された恵み>

 

最初にキリストの誕生が伝えられたのは、当時の政治家や富豪ではなく、社会の底辺にいた羊飼いたちであった。社会で冷遇されている者にまず福音が伝えられた。なぜだろうか?そこに神の意志が示されている。

⇒ 権力や富によってこの世に満足している者たちは、救い主を受け容れなかった。イスラエル社会の上層部(律法学者や権力者たち)はキリストを受け入れなかった。

 

「貧しい人は幸いである。彼らはいずれ富む者とされる。しかし、この世においてすでに満ち足りている者はわざわいである。いずれ彼らは何も持たない極貧者になる。」

 

羊飼いたちは、すぐに幼子を捜しに行き、飼葉桶に眠る御子を見つけて、自分たちの受けた御告げを語り、神を崇めて賛美しながら帰っていった。⇒ 当時の人々が救い主キリストが来られるのを待望していたことが分かる。


しかし、その救い主は誰にも分かるような煌びやかな姿で王宮や貴族のベッドで生まれたのではなくて、家畜小屋の飼葉桶に生まれられた。

罪に堕ちたこの世は、神の御子/救い主を受け入れる場所をもたなかったからである。

「宿屋には、彼らのいる場所がなかったからである」(2章67節)

しかし、そのような罪に満ちた私たちの心の中にこそキリストがやって来られる。心の扉を叩いておられる救い主キリストを中にお迎えしよう(祈)