福島キリスト教会 から 聖書のメッセージ

日曜礼拝で語られている聖書からのメッセージをUPしています。

罪人のわたしを憐れんでください(ルカによる福音書 18章9~14節)

本日も、イエス様の譬え話から1つを取り上げてみたいと思います。

譬えには日常感覚とのズレがあり、それが福音の驚き、神の国と世の国の違いを指し示すポイントとなっていることを繰り返してきましたが、この譬えではどうでしょうか

 

義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない(14節)

 

そもそも、義とされてとはどういうことでしょうか。神さまによって「正しい者」と見なされることです。そのためには、何が必要なのでしょうか?

 

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<パリサイ人の祈り>

 

あるパリサイ人が出てきます。このたとえ話の中で、いわば、悪役のような立場で登場しています。しかし、この人物は本当にいわゆる「悪人」だと言えるでしょうか。

 

まず彼は、1週間に 2度断食している。皆さんそういう生活をしているでしょうか。ダイエットのため、とかいうことを言っているのではありません。この断食は、ユダヤ教の律法に定められている宗教上の修練です。断食しながらただ神に祈る・・・空腹との闘いです。身体的にも、精神的にもつらい鍛錬です。この人は週に二度も行っている。

 

もしも、こんなふうに、完全に宗教的な戒律を厳格に守っている人がいたら、その人を見て、あの人は「悪人」だと言うでしょうか?言わないでしょう。むしろ立派な模範的な正しい人、優等生として扱うことになるでしょう。

 

しかし、このパリサイ人は、「神に義とされた」とは言ってもらえませんでした。いったいなぜでしょうか?パリサイ人の祈りは、どこに問題があったのでしょうか?

 

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<徴税人の祈り>

 

これに対して、徴税人が登場します。徴税人とは「税金取立て人」です。今日の税務署の役人=高級官僚とは中身が全く違います。

当時ユダヤ社会は、ローマ帝国に占領されていました。税金と言えばローマ帝国へ納める税金のことです。しかし、ローマ帝国に収める税金を、外国人のローマ人が取り立てていたのでは、ますます国民感情が悪くなり反発が強まる。

 

あえて、同じユダヤ人を雇って、彼らに税金取立ての任務を行わせていたのです。その人は、憎き占領国の手先となって、同胞から血税を巻き上げる。敵国に魂を売った売国奴とののしられるような憎悪の対象となるのです。

ローマ帝国は、彼らを雇って憎まれ役、悪役をさせているので、彼らが中間マージンを余計に取り立てて自分の懐を肥やすことについては黙認していました。

 

つまり、この時代の徴税人は、二重の意味で、同胞のユダヤ人から憎まれ蔑まれていたわけです。1つは売国奴、敵国の手先となって同胞から金を巻き上げること、もう1つは不正利得、上前をはねて不正な利益を稼いでいるという悪です。

 

敵国(汚れた異邦人)の使いとなって、同胞(神の民であるユダヤ人)から税金を取り立てて、自分だけが裕福な暮らしをしている徴税人は、真っ先に地獄に堕ちる。決して救われるはずがない・・・そんな見方がなされていました。

徴税人は、泥棒や、殺人犯、娼婦や、詐欺師などと並んで、そういった忌み嫌われた職業の中でも批判されていた職業です。

 

そのことは、もちろん、徴税人たちも自覚しています。彼らには「友達」になってくれる人などいなかったでしょう。同胞からは白い目で見られ続けています。開き直って、とにかく自分だけが富を蓄えて裕福に暮らすしかない。

 

そういう徴税人の一人が、神殿の端っこにきて人目につかぬように祈っている。

パリサイ人と違って、胸を張れることなど何もありません。むしろ、数え上げれば、自分が行ってきた悪行の数々が思い出されるでしょう。自分にはもう罪しかないのです。

 

彼は、神さまの前に、祈ろうとしたら、言葉が出て来ない。後悔の念、反省の念がこみ上げる。神の前に顔を上げられないような気持ちになる。

 

ファリサイ派の人は、意気揚々と神殿に上ってきて、一番前の一番目立つところに堂々と胸を張って、他の人にも聞こえるような大きな声で祈っていました。

 

⇒ 自分がいかに正しいか、立派であるか、間違っていないかを誇っているからです

それに対して、この徴税人は、神殿の前に進み行くこともできず、後ろの方、神殿の境内の遠くに立って、ただただ自分の胸を打ちたたいて懺悔するしかなかった。

 

【例】 聖公会の礼拝では、司祭が、聖餐式のパンと葡萄酒をいただく前に、三度、自分の胸を打ちたたく仕草をする。神の御前に、胸を打ちたたく。それは、神さまの御前に、痛悔の気持ち、自分の罪深さを思い、悔いる心が現われていることを示す。

 

徴税人は、ただ一言だけ静かに祈りました。

「神様、この罪人のわたしをどうか憐れんでください」

⇒ これが徴税人の祈りでした。

 

確かに、この両者はとても対照的です。ユダヤ社会の中の、両極にいる人と言ってもよい。かたや、エリート中のエリート、かたや、もっとも忌み嫌われ悪人の極みと蔑まれる人。⇒ みなさんは、自分自身がどちらのタイプの人間に近いと思うでしょうか?

 

しかし、神に義とされて家に帰ったのは、この徴税人だ、とイエス様は語るのです。この譬え話における最大の驚き、違和感はここにあります。

 

⇒ 徴税人にあって、パリサイ人になかったものは何なのでしょうか?自分の正しさを誇るパリサイ人は、なぜ救いにあずかる信仰を持てなかったのか?

 

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<パリサイ人の問題点 ①自己義認と高慢さ> 

 

ひとつヒントがあります。冒頭に、自分は正しい人間だとうぬぼれて、という記述があります。言い換えると、自分を頼みとする。

 

自分の「正しさ」「義」を頼りとするということです。これを専門用語では「自己義認」といいます。

 

ようするに、自分の正しさによって=立派に正しく振舞うことによって、神に認められよう、救われよう、と試みることです。

 

日本人や中国人にはとても分かりやすい当たり前の感覚なのではないでしょうか?

死んだら、三途の川を渡って、あの世のお白州で閻魔様の前に「生前の行い」に従って善悪を計られ、善行が勝っていれば極楽に、悪行が勝っていれば地獄へ落とされる、というのが日本人の来世観だと思います。

 

この感覚からすれば、自分で頑張って「正しさの基準」を善行を重ねてクリアしているならば、自分の積み上げた正しさと引き換えにして、救いにあずかることができる。

 

このパリサイ人が、自分の正しさに頼って救いにあずかろうとした、ということは、まさにそういう感覚です。

パリサイ派たちが考えていたのは、自分たちは先祖伝来のユダヤ教の律法、掟、戒律をこんなに厳格に守って、何も律法から外れる悪事を行っていない。こんなに正しく清く生きている立派な優等生の我々が、一番最初に神に選ばれるに違いない。

 

⇒ 日本人の多くが、キリスト教の来世観や救済論(十字架の贖い)がなかなか分からないのも、こうした感覚のズレがあるからでしょう。

 

自己義認で救いを勝ち取ろうと考えがちなのが日本人です。自分で頑張って何か修行をして正しく清く立派になればおのずと救いにあずかるのだと考えやすい。キリストの十字架に頼る、という発想になれないのでしょう。

 

され、パリサイ人に対して、この徴税人は何を頼りにしたのでしょうか。彼自身の中には、頼りにできるもの、正しいと誇れる要素が全く無いわけです。

 

自分の罪深さを熟知している。自分の中に神の御前に「自分が正しい」と主張できるようなものは何もありえず、私はただ神の前に「罪人」でしかない。ゆえに彼は「神様の憐れみ/恵み」に頼るしかない。

 

この徴税人の姿勢に、本当の「認罪」「悔い改め」とは何か?

本当の「信仰」(=救いにあずかることのできる信仰)とは何か?

といったことの真髄が示されているのです。

 

徴税人にあって、パリサイ人になかったものは、おのれの罪深さ、神のみ前に善なる存在ではありえない、という徹底した自己理解です。

 

自分はただひたすら頭の先からつま先まで徹頭徹尾、霊的に腐敗しきった罪人の頭である、ということをどれだけ自覚しているか、それが「認罪」であり「悔い改め」の質です。

⇒ この徴税人の罪認識、痛悔の程度が10とすれば、私たちは何段階でしょうか?

 

毎年10月31日は、宗教改革記念日と呼ばれています。ルターを覚える日です。

ルターが聖書の「救いの本質」(信仰義認)を改めて明示して、キリスト教本来の救済論をもう一度再認識させるキカッケを与えました。

 

聖書の救いの本質を、ひとことで言うならば、「信仰による義認」ということです。これは現代では、プロテスタントカトリックいずれにも共通する真理と言ってよいでしょう。

 

人は自らの行いや積み上げた功績よって義とされるのではない。

 

どれだけ自分が正しいと思って自負していたとしても、神の目から見れば、徹頭徹尾、罪の塊でしかない。(人間の基準と神の基準はまったく次元が異なる。人の思っている善行や清さなどは、神の目からは不完全なものにすぎない。善と聖の次元があまりも違いすぎる。)

 

その罪人にすぎない者が、ただ神の憐れみ、恵み、赦しにすがることによって、十字架のキリストを信じることによって、救いにあずかる者として認められる。

 

みずからの徹底した罪認識、悔い改めのゆえに、ただひたすらキリストの贖いを信じる(=信頼する)信仰こそが、救いにあずからせる信仰です。

 

⇒ 悔い改め(罪認識/痛悔)と 救いにあずからせる真の信仰 は表裏一体です。

 そうした真実な 悔い改めと信仰があるか?救いの経験 は明らかですか?と私たちも問われているのでしょう。

もし、明確なものが何も無いのであれば、まず自らの罪を悟らしめる聖霊が与えられ、霊的な目が開けて、神の御前にどんな存在であるかが分かるように祈りましょう。底なし沼のように「罪に腐敗している自分の霊的状況」を分からせて下さるように切に祈りましょう。

有効な罪認識と心からの痛悔(悔い改め)なくして、本当の意味で、救いにあずからせる「有効な信仰」は生じないのです。

 

パリサイ派は、自分がちゃんとやっている、世間から後ろ指さされない立派な模範生だと自負して、自分のわずかばかりの正しさを頼みとしていた。そこには、本当の意味で、深い罪理解、自己理解、痛悔とよばれる悔い改めが伴っていない。神の憐れみと恵みにすがりつくような真剣な信仰が無いのです。

 

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<パリサイ人の問題点 ②人の目に善であるか、神の目に善であるか> 

 

もう1つの問題点は、パリサイ人はあえて他人に聞こえるように祈りをしている。

 

「私はこんなに正しい者です。ちゃんと掟を守り、これだけの功績を積みました。誰からも批判されるような落ち度はありません。」

 

しかも、徴税人と自分とを比較して、自分の正しさを誇っているのです。「あのような罪深い者でないことを感謝します」

この姿勢に、パリサイ人の祈りの2つ目の問題点があります。

 

この祈りは、本当の意味で 「神様とわたしの関係」「神とわたしの交わり」を形成するような祈りにはなっていないのです。

 

パリサイ人が気にしているのは、ただ人様からの目です。世間の視線ばかりを気にしていて、神様とわたしが一対一で向かい合うという視点ではない。

 

ほら、あの人より自分はずっとマシでしょ。こんなに世間的に見れば立派に正しくやってるでしょ。だから私は世間では一番の優等生なのよ。という思い上がりこそあっても

 

そこに、本当に自分の霊的な貧しさ、霊的腐敗、罪の深みを直視して、神の御前に静まり、罪を悔い、神にすがりつくように祈り求めるような姿勢が欠落しているのです。

 

この譬え話を通して、私たちが問われているのは、あなたはどちらの姿勢で十字架の御前にたっているのか?ということではないでしょうか。

 

ただ、世間の基準、この世の人様の視線ばかりを気にして、人の前にいい子であろうとして生きているだけなのか?

それとも、この世の基準を遥かに超えた、神の目、天の御国の基準に常に目を注いで生きているのか?

 そこに、信仰の実質が見えてくる。あなたが本当の意味で、神様の御前に静まり、おのれの罪を正しく理解し、十分な悔い改めを持っているのかどうか? 

 

徴税人のように、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」とただただ神の憐れみにすがりつく純粋な信頼が、自負心に固まった傲慢なパリサイ人には無かった。私たちも、人の目ではなく、ただ神の御前に立つ信仰と悔い改めを求めよう(祈)