福島キリスト教会 から 聖書のメッセージ

日曜礼拝で語られている聖書からのメッセージをUPしています。

純粋な愛をもって主を慕う(「雅歌」より)

冬に閉ざされたガリラヤの田舎村(農村)に、自分の所有する「ぶどう園」の視察に訪れる宮廷の王が、シュラムの女に呼び掛けて「春の郊外デート」に誘っている。

 

「わが愛する者よ、ひき籠もっていないで、立って外へ出てきなさい」(=呼び掛け)

「私たちの愛のぶどう畑を食い荒らすキツネがいる。キツネを捕らえよ。」(=注意)

「わが愛する者は私のもの、私は彼のもの」(2章16節) ⇒ 愛の相互浸透・所有

 

「わたしはケダルの天幕のように黒いけれども美しい」⇒ 罪を覆う神の義ゆえに

「わたしのナルドは香りを放った」⇒ キリストの香りを放つ者へと変えられる

 

「雅歌」ほどに(歴史神学的に見ても)豊かな「多様な解釈」が繰り広げられた書も珍しい。大きく分けると、「字義通りの解釈法」と「比喩的な解釈法」に分かれる。

 

現代の聖書学では、「字義通りの解釈」だけを受け入れて、「比喩的解釈」を退けるという行き方をしやすいのだが、古代教会の比喩的解釈にも「霊的な豊かさ」があり、ルターなどにも大きな影響が見られるのだから、全部を否定してしまう必要はないと思う。ここでは、現代の字義的解釈と古代中世までの比喩的解釈を比較・折衷しながら、雅歌を読み解いていきたい。

 

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<「神への清い愛」が、私たちを天上へと至らせる力となる= 霊的上昇論>

 

古代~中世のキリスト教会において、「雅歌」は比喩的解釈が施されて、男女の水平的な愛の交わりではなく、神と人との垂直的な呼応関係、特に、神の招きに先導されて、霊的な段階を上昇して魂を清められながら、神との祝福された合一(結婚)へと向う魂の上昇プロセスとして解釈されていた。(オリゲネスやベルナルドゥスが典型)

 

肉体、魂(精神)、霊の3区分に合わせて、肉的な人、魂的な人、霊的な人というように、信仰者にも霊的成長の度合いや段階が存在している、とオリゲネス等は考えている。(パウロも、コリント書のなかで、肉の人、霊の人、霊的な乳飲み子、霊的に成熟した大人を区別しているが)

 

しかし、この霊的上昇(=神への純粋な愛と思慕)を妨げて、地上(罪性・肉性)に縛り付けようとする障害が多々ある。

 

「純粋な愛を妨げる障害」をいかにクリアし、神への純粋な愛を常に変わらず燃え立たせつつ、祝福の婚姻を成就していくか?ということが「雅歌」の主題となる。

 

(1) 神以外の「この世の事物」に対する愛着・執着 = 肉の人、外なる人の問題

(2) 悪魔の霊的惑わし(偶像崇拝)= ぶどう園を荒らしまわるキツネ

(3) 私自身を「彼のもの」として「完全に明け渡し委ねる」 = 愛の応答への拒否

 

私たちの心の中から、神への純粋な思慕の愛、神だけを求める純粋な愛以外の雑多な欲望や情念や動機がすべて駆逐・排除されて、ただ「神への純粋な思慕の念」によって満たされるまでは、神との祝福された霊的一致は成就しえない。

 

ナルドの香油を注いだ女は、この純粋な愛を体現している人物と解釈できる。

彼女は高価な(300デナリ)の「ナルドの香油」を惜しみなく、主のために注いだ。

ここに「献身」ということの真髄、本質が示されている。愛による完全な応答である。

 

⇒ 「愛がおのずから起こるまで待ってください」(=愛される神への愛による応答)

⇒ 神様はわたしたちの「自発的な応答」を待っておられる。土足で心の中に踏み込んで来られて、愛を強要される方ではない。

 

「わが魂の愛する者をたずねた。わたしは彼をたずねたが、見つからなかった。」

⇒ 神を捜し求める飢え渇き、魂の暗夜(暗闇)が 救いの前にはあったはず。

婚姻に至る前の回想では、悪夢の中で恋人を見失った悲しみが歌われている。

 

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<ルターの霊的結婚論 = 聖なる交換の神学>

 

信仰によって、新婦が新郎とひとつにされるように、魂がキリストと1つにされる。この結合によって、キリストが所有されるものは、信仰者のものとなり、信仰者の魂が所有するものはキリストのものとなる。キリストは一切の霊的宝と祝福とを持っておられるが、我々は一切の不徳と罪を負っている。ここに喜ばしい交換が始まる。

 

キリストは、その結婚指輪によって、信仰者の魂を自分のものとされ、その罪を代わりに負われるのであり、私たちの魂は、その結納品として、罪から解放され、霊的な自由と祝福、神の義を与えられるのである。(「キリスト者の自由」第12項)

 

あなたがたは、完全に内的な人、まったき霊的な存在になっているのではなく、そのことは終わりの日までは成就していない。地上においては初めと前進とがあるのみである。その約束が成就されるまでは、肉に注意して、霊を求める生き方をすべき。(「キリスト者の自由」第19項)

 

⇒ ここに「終わりの日」「約束の日」=再臨というテーマが関係してくる。

 

キリストも「十人の乙女の譬え」をされている。花婿である再臨のキリストは、いつ再臨されるか乙女たちには分からない。その終末に向けての準備を整えて日々を歩んでいるかどうか?が問われる。

 

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<最初の愛に立ち帰りなさい>(黙示録2-3章)

 

7:11わが愛する者よ、さあ、わたしたちはいなかへ出ていって、村里に宿りましょう。

7:12わたしたちは早く起き、ぶどう園へ行って、ぶどうの木が芽ざしたか、ぶどうの花が咲いたか、ざくろが花咲いたかを見ましょう。その所で、わたしはわが愛をあなたに与えます。

 

⇒ 信仰的マンネリや、偶像への執着、この世を愛する愛、神から引き離すキツネの妨害など、様々な障害が「結婚生活」には付いて回るが、夫婦生活はお互いの歩み寄りが無ければ破綻してしまう。当初の愛の誓い、純粋さに立ち帰るように。

 

2:4しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 2:5そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。(黙示録)

 

3:19すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。 3:20見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。 3:21勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。(黙示録)

 

私たちも、神を信じる前の虚しい暗闇のような歩みを思い起こしながら、この世の何者よりも、純粋に神を愛し求める愛に立ち帰っていくことができますように(祈)

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【礼拝メッセージ/参考メモ】 

旧約聖書 「雅歌」(ソロモンによる「歌の歌」) 

 

<本書の概要(緒論)> 

「聖文学」のジャンルに分類される書であり、ソロモン王が記したとされる「伝道の書」「箴言」と兄弟関係にある。ソロモンが若い頃に書いたとされる恋愛詩であり、3000首もの詩歌を作ったとされる(参照:列王記上4章)ソロモンの歌集の中でも最高傑作とされてきた。

 

字義通りに読めば、内容は「男女の官能的な恋愛賛歌」であるため、ユダヤ教においても特殊な扱い(成熟した成人しか読んではならないという慣例)をされてきた。

キリスト教史においても「比喩的解釈」が豊かに施されて、「花婿と花嫁」の関係を「神とイスラエル」「神と教会」「キリストと(教会)信徒」の関係として捉え直しながら寓喩的に解釈されてきた歴史がある。

 

キリスト教史における「多様な解釈」>

「雅歌」ほど多種多様な解釈が繰り広げられてきた書も珍しい。大きく分けると3つの解釈型がある。

 

① 比喩的(寓喩的)解釈 ・・・ 文字通りの意味(男女の恋物語)として読むのではなく、譬え(暗喩)として、別の事柄が喩えられている詩文として「隠された意味」を解読する。

古代~中世においては、この方法論が主流であり、オリゲネス、ニュッサのグレゴリオス、クレルヴォーのベルナルドゥスなどにより多様な解釈がなされた。

⇒ 宗教改革者ルターにもこうした「寓喩的解釈の遺産」が部分的に引き継がれている(=聖なる交換の神学/「キリスト者の自由」第12項)

 

② 予型的解釈 ・・・ 来るべき新約の福音(=キリストの来臨・受難・再臨)を指し示す書として読む。

③ 字義的解釈 ・・・ あくまでも文字通りの意味(男女の恋愛譚)として解釈する現代的手法。

 

<本書の中心テーマ> ・・・ 「探し出して下さる神」(花婿)、「慕い求める人間」(花嫁) の純粋な「愛」

 

中心的な登場人物は、シュラムの女(花嫁)と 花婿たる王 の2人であるが、途中から登場してくる「羊飼いの男」を王とは別人とみなす解釈もある。彼ら以外に花嫁の友人(エルサレムの女たち)が合唱隊のような形で参加しているとする解釈もあり、登場人物の確定からしても難解な点が多々ある。

新約聖書との関連でいうと、ナルドの香油注ぎ、十人の乙女の譬え、などの関連箇所が考えられる。

 

<「字義的解釈」による構成> 

時系列は ②→③→①→④→⑤ の順番だろうと想定する。

場面①: 結婚式における愛の誓い(1:2~2:7)

場面②: 婚約前のロマンスを追憶する(2:8~3:5)

場面③: 結婚式における上京・挙式の描写 (3:6~5:1)

⇒ 田舎の農村から都の宮廷に大行列(輿車)を伴って迎え入れられるシュラムの女

場面④: 2人の結婚生活上のズレ (5:2~6:9)

⇒ 王との夜を拒否してしまう女、すれ違う2人の関係、そこから愛の応答性の回復

場面⑤: ガリラヤ(の妻の実家)への夫婦旅行(6:10~8:14)

⇒ 都市(王宮)を離れた自然(故郷)における愛の再燃

 

<「雅歌」から読み取るべきメッセージ>

 

あなたは純粋な「愛」をもって、神を、キリストを、福音を、御言葉を慕い求めているか?

約束されている「婚約の完全な成就」(=再臨)にむけて、私たちは今をどう過ごすべきであるか?