福島キリスト教会 から 聖書のメッセージ

日曜礼拝で語られている聖書からのメッセージをUPしています。

旧約聖書「伝道の書」(コヘレトの言葉)を読む

<本書のテーマ> 「人生に何の意味があるか? 本当の幸福とは何か?」

本日は、ノンクリスチャンの方もおられるので、聖書の世界観や人生観に触れるキッカケになれば、と思い、難解なことで有名な「コヘレトの言葉」をあえて選んでみました。

「人生には何の意味があるか? 本当の幸福とは何か?」と問われたならば、あなたはどう答えるか? 

⇒ この質問にどう回答するかによって、その人の人生観、世界観、価値観、信仰の内実、が明らかとなる。

 

この書において、ソロモンor編集者は、もし神がいないとすれば、この世界、この人生にはいったいどんな意味があり、いかなる幸福があるのか?ということを「知恵」を駆使して徹底的に、あらゆる角度から、この世の人生について検証し尽くそうとしている。

その結論は一言でいえば「いっさいは空の空であり、すべてが虚しい」ということ。 つまり、本日の説教題のように「神なき人生は 恐ろしく虚しいものだ」ということ。

 

神を無視して信仰を持たないで人生を送ったならば、その人は「人生の意味と幸福」を本当に見い出せますか?

ということを、あえて神や信仰という言葉を前面に使わないで、哲学的知恵をフル活用して問いかけつつ、正しい信仰へと促す書といえる。

 

<世界と人生を徹底的に分析してみる>(1-11章)

(1) <自然>の無意味さ(1:4~11)

・空の空、空の空、いっさいは空である(1:2)

⇒ 「伝道の書」の中心聖句の1つ

太陽は東から昇り、西に沈み、また東から昇り、永遠にグルグルと繰り返すだけ

風は、南から、北から吹いてくるにしても、結局は巡り巡って循環しているだけ

川はみな海に流れ込むが、それで海が満杯になることがあるだろうか? 結局、蒸発した水がまた雨となって川に注ぎ、海に流れることを繰り返しているだけ

 

⇒ 自然界に「目的」や「完成」「終着点」を見い出すことができない。 春夏秋冬も何億年と同じサイクルをひたすら繰り返すだけで完成や目的がない。 自然の循環は、目的も完成もなく、ただ機械的に意味もなくグルグル果てしなく同じことを繰り返して循環しているだけではないか。(参照:無神論哲学者ニーチェの「永劫回帰」論)

 

・先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。(1:9)

⇒ だからこそ、前より成長しただとか、目標や完成に向って新しい成果を得るなんてことは起こり得ない。50年後も、1000年後も、同じ繰り返しがなされるだけである。

⇒ 筋金入りのペシミズム(厭世主義)この世界がいかに虚しいものか?を説く

 

ちなみに「空の空」という表現は、仏教によく似ている気がする。 仏教では「この世のあらゆる存在が、虚しく不確かなものである」ことを空とか無常と言う。

 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、 ひとへに風の前の塵におなじ(平家物語

 

⇒ 仏教もまた、この世が本質的に虚しいものにすぎないこと、永遠で変わらない確かなものなど、この世には一切存在しない、と考える点においては「コヘレトの言葉」と相通じる真理を共有している。

ここで、皆さんに考えていただきたいのは、では仏教と、キリスト教(聖書)は根本的に何が違っているのか?どこに違いがあるのか?という点である。

そのためには、両方をよくよく知らないといけない。

ちなみに、仏教と言っても、日本の場合は曹洞宗真言宗日蓮宗浄土真宗天台宗などおよそ十三宗派に分かれている。仏教史では、原始仏教上座部小乗仏教大乗仏教、と3つに分ける。日本に伝来したのは、終わりの方の大乗仏教で、オリジナルの原始仏教からずいぶん異質な宗教へと変質してしまっている。

例えば、日本仏教では死んだら仏さんになると説くが、原始仏教にそんな教えはない。 これは平安時代比叡山最澄が「悉皆成仏論」の極端な解釈を言い始めたのが起源である。実は「仏」や「仏性」という概念すらも原始仏教には存在しておらず、はるか後世の付加物である。 なので、今回はあくまでもオリジナルの原始仏教との比較で考えてみたい

 

この世の虚しさに対しての見解は、実はキリスト教原始仏教も一致している。 2階建ての建物で喩えるならば、1階部分は共通している。

「この世の存在は、すべて虚しいもの」であり、最終的な拠り所にはなりえないから、そこに人生の基礎、幸福の土台を置くな!と言う。

だから、アジア人がこの【コヘレトの言葉】を読んで、ああ何だか仏教的だ、と感じるのも無理はない。仏教とも共通した真理が含まれているから。

しかし、仏教と聖書では1階部分は同じだとしても2階以上の結論がまったく違ってくる。

「この世は虚しい」という1階の認識に立って、では何を求めるべきか? 人はどのように生きるべきか?を勧めるのが2階部分である。

ここまで来ると 神様、天の御国、永遠の霊的いのち、を説いている聖書と、創造主やあの世や不滅の霊魂について明確には教えない仏教とでは違いが出てくる。

(オリジナルの原始仏教上座部仏教では、自己存在の永遠性を否定する「無我」を説いている以上は、死んで後も永遠に霊魂が存在するという考えをはっきりとは肯定できず、非常にぼやかした不明瞭な言い方しかできないし、来世やあの世の存在についても明確な言明がない)

どう違うか?はメッセージの最後でお伝えしますが、 みなさんも違いを一度考えてみて頂きたいと思います。

 

(2)世俗の考える幸福の限界(2章、4~6章)

 

ソロモン自身の半生を振り返りながら、富や財産、快楽、王の権力、大事業の成功など、世俗の栄華がいかに取るに足りない不安定で虚しいものであるか、が語られる。

わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。(2:3)

わたしは大きな事業をした(2:4)わたしはまた銀と金を集め、王たちと国々の財宝を集めた (2:8)わたしはわが手のなしたすべての事、それをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ皆、空であって、風を捕えるようなものであった(2:11)

 金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない(5:10)

財産が増せば、これを食う者も増す。持ち主は目にそれを見るだけで、なんの益があるか(5:11)

富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである。その富は不幸な出来事によって失せゆく。その人が子をもうけても、彼自身の手には何も残らない。

 

⇒ お金をいくら持っていても、これだけ持っているから、私は平安であり、満ち足りている、未来永劫に不安はない、というほどの幸福や真の安心を得ることはできない。

・ 欲望には際限が無い。

【例】穴の空いた水瓶に、穴の空いた柄杓で水を注いでいる愚かさ (プラトンゴルギアス』より)

「快楽」「充足」を感じるには、それに先立って「苦痛」「空虚」が必要となる。

人間にとってはこれら正反対のもの(充足と空虚、快楽と苦痛)が常に1セットで表裏一体である。

例えば、飲食を美味しいと「快」を感じて充足感を得ることができるのは、それに先立って「空腹や渇き」(苦痛・欠乏)が存在しているからである。先立つ欠乏が無ければ充足感も発生しない。

ゆえに人間は、どちらか一方だけ(快楽だけ)を切り離して求めることはできない。

ゆえに、欲望の満足をいくら求めたところで、これで「完全に充足した」「快だけしか存在しない」という状態に行き着くことはありえない。人間存在とは「穴の空いた水瓶」と同じなのだ。

 

・ 自分が築き上げたもの、集めて構築したものを、自分がコントロールできない

⇒ 財産を巡る骨肉の争いが生じる。財産があれば奪われる不安ばかりが増す。

どんな大金や資産があっても、死んだら無意味、持って行くことができない。 ろくでもないドラ息子に相続して財産が譲渡されるのを死ぬ間際の老人には止められない。

 所有する金銭資産が多くなればなるほど、憂いが増し、本人の益にならない。

⇒ 王の権力、王座も同様である。

いつ王座が奪われるかに疑心暗鬼になり、また後継者が優秀有能であることは稀であり、凡愚なものに自分の意志に反して権力が奪われることを阻止できない。

⇒ 名誉や評判はどうか?

他人からの評価ほど不安定なものが他にあるか? 人からああ言われた、あの人がこう批判していた、誰から褒められただの、という ことにあなたは一喜一憂して感情が上がり下がりしていませんか? 人の評価など気にするほどのものか?

誰が常に正しくあらゆる物事を見れるのか? その人の判断や評価が正当であり、かつ変わらないとなぜ言えるのか? 特に無知な大衆ほど、朝には褒めそやしていても、夕方には批判しているものだ。 これほど不安定なものがどこにあるか?そこに幸福の根拠を求めることは愚か。

 

以上のように、財産、権力、成功、他人の評価など、世の何かに幸福を求めても満たされることは無い。そうしたもので、幸福や平安が得られると思うのは錯覚・幻想にすぎない。

⇒ 神以外の「偶像」を頼りとして、自分の幸福を求めようとする生き方の愚かさ

人間が「神との関係」において、正しく神のかたちとして生きることを妨げている 1つ1つの「偶像」を吟味して、取るに足りないものであることを明らかにしている。

 

(3)「死」こそ最大の問題 (3章18節)

「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。 3:19人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。 3:20みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る

 

富者にも貧者にも、知者にも愚者にも、善人にも悪人にも、等しく「死」が訪れ 人生において築き上げてきた全ての労苦(成果)を破壊して無に帰される

⇒ 人間がまったくコントロールできない、権力も知恵も及ばない破壊者が死である。

どんな大富豪で巨万の富があろうが、どんな王や権力者であろうが どんな知恵者であろうが、自分の持つ力によって、死をコントロールすることなど 誰にも不可能。

 

 世の人々が「富」「権力」「名誉」「家族」「愛情」などに自分の幸福の根拠を求めようとするのは、それらが「永遠に存続するもの」であるかのように錯覚しているからではないか。

⇒ 「死」の前には、これらは等しく無力である。コヘレトの冷徹な悟りの目から見れば、家族の絆や、男女の愛ですら、死を乗り越えてまで永続するような力はない。

 

この世のすべての存在は「空の空」であり、ここで仏教と等しい真理を共有している。

 

<人間のあるべき生き方 ・・「神をおぼえ、神を畏れて生きよ」>(12章)

 

仏教では、「あらゆる存在が空虚である」という認識=悟りにいわば開き直ることで 問題を解決しようとする。

自己存在すらも空虚である、まして自分のもの(確かな所有物)など存在しない、 ゆえに、いかなるものをも所有せず、執着する心自体を起させないようにする。 そうすれば、過ぎた欲望や、他人への愛着、などの心を乱す情念(煩悩)が発生しない。

仏教では、座禅、瞑想などいろんな修行をして、自分という存在などない、この世は空虚で虚しい、という「悟り」に徹しようとする宗教。

いかなるモノも「永遠ではない」「取るに足りない虚しいもの」だということを徹底していって、その悟りにいっそ開き直ってしまえば、心を乱されることがなかろう。

執着や欲望や感情が発生しなければ、心は常に平安でおられるだろう、という方向で問題の解決を図ろうとしたのが仏教という宗教である。

物事や自己に対する「こだわり」「欲望」を抱くなかれ、自分、自分のモノというこだわり、執着、欲得を持つことによって、人はそれを失うまいと恐れ不安になり、心の平安を失うことになる。

だからこそ、この世の存在は例外なく「空虚」「無常」なものであることを徹底して悟りぬいて、あらゆる自己認識や執着心や愛憎の感情すらも生じてこないような精神状態(涅槃)に到達しなければ、本当の心の平安、幸福はありえないと説く。

これが、日本仏教とは違う、もっとも古い釈迦時代のオリジナルの原始仏教の教えの内容である。詳しくは「スッタニパータ」「ダンマパダ」等(岩波文庫)を読んでみるとよい。

 

<仏教は本当に「人生の目的」に答えを与えているといえるか?>

さて、仏教の論理はだいたいお分かり頂けただろう。

仏教の難点は、人間はいったい何のためにこの世に生まれてくるのか? 人生の目的とは何であるのか?という問いにはまったく答えていない点にある。

自己という存在に固執せず、いっさいの執着心や欲望を消し去ること自体が「究極の目的」であるならば、そもそも「生まれてこなければよい」ということにならないか?

あなたが生まれてきたのは、自分があるという認識を持たずに、いかなることにも関心を持たず、ひたすら瞑想して心を無にするためです。と言われても

そんなことのために、人間はわざわざ生きる意味があるのか?それこそ無意味な 何の目的も使命もない岩や木のような生き方ではないか?と思わないだろうか

釈迦は、人間がどうして生まれてくるのか、世界はどのように生まれたのか、人は死んだらどうなるか?といった質問にいっさい答えなかった。「無記」と言われる。

そんなことは知らなくて構わない、人間理性には探求してもおよそ知りえない真理であってムダな労苦にすぎない、という立場に開き直るのが釈迦仏教である。

しかし、こうした人知を越えた真理にこそ、私たちの人生の目的と意味を与える最終的な鍵がある。

世界を造られ、人間を創られ、すべての存在に役割と目的と意味を与えておられる「創造主」たる神様との関係で、人生を考えなければ、すべては虚しく、何の意味もない。

 

⇒ 仏教には、創造主たる神も、天国も、永遠の霊的いのちもはっきりと教えられない。執着心を去る修行によって一時的な心の平安は得られるかもしれないが、人生の最も根本的な意味や目的はさっぱり分からない。

 

仏教とキリスト教は、1階部分は同じであって、この世のあらゆるものが虚しいものであって、人生の目的や幸福の根拠にはなりえない、ということを悟る点では同じ。

しかし、そのことを踏まえて、では何を求めるべきか?という2階部分が異なる と言った。

仏教は、虚無に開き直って、虚しいということに徹する。

 

この世の虚しい存在を超えた世界にこそ、神の御国があり、そこは「永遠」の存在であると、聖書は語っている。

仏教と聖書の違いは、「神」「霊」「永遠」ということがはっきりと前面に出てくるかどうか?である。

この世の虚しい空虚な世界を超えた先に、神の備えられた永遠の領域があり、私たちはそこに向けて導かれるべき存在である。

また、この虚しい世界であっても、あえて1人1人が生まれてくる理由があり、創造主である神様のご計画が背後にある。

1人1人の人生には、神様から与えられた課題や役割や使命がある。 創造主たる神を無視して、いくらこの世だけで完結して生きようとしても、そこには虚しさしかない。

 

しかし、神がおられ、この世界とあなたの人生にも課題と役割と使命があり、死んだ後も永遠の霊的生命が用意されている、という信仰の世界観に立つのかどうか によって、あなたの人生の見方や生き方は大きく変わってこないだろうか?

 

あなたの若い日に、あなたの造り主(神)を覚えよ。 年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に(12:1)

神を畏れその教えを守れ。これはすべての人の本分(あるべき姿)である(12:13)

 

 

⇒ コヘレトはそのようにして、神を無視して、神を求めない生き方がいかに虚しいものでしかないか、を知恵を尽くして暴露することによって、みながその「虚しさ」を自覚するように促す。

12:11知者の言葉は「突き棒」のようであり、またよく打った釘のようなものである

 

この「虚しさ」を自覚を徹底して促すことによって、ようやく「神様の存在」「来世の永遠のいのち」を求めようという心が起されてくる。

「虚しさ」の感覚は「正しい信仰」を産み出す母である、といえる。

私の探求の言葉は。信仰を呼び覚ますための「突き棒」「刺激剤」なのだ、というコヘレトは告白する。