福島キリスト教会 から 聖書のメッセージ

日曜礼拝で語られている聖書からのメッセージをUPしています。

「種蒔きの譬え」(マルコによる福音書 4章)

<「譬え」で語ることの意味>

 

ガリラヤの湖畔にイエス様がおられると、おびただしい数の群衆が押し寄せてきた、と1節にあります。イエス様は舟に乗って、湖の方から岸辺にいる群衆たちに対してこの譬え話を含む説教をされたという状況です。

 

ここには、大きく分けて2種類の聴衆/オーディエンスがいることが分かるでしょうか?1つは、おびただしい群衆たち、もう1つはイエスに付き従っている弟子たちです。

後のほうで、譬え話の「解説」を主ご自身がされていますが、その中で、「あなたがた弟子たちには奥義が授けられるが、他の者たちにはすべて譬えで語るのだ」(11節)と仰られています。

 

「あなたがた」が「ペテロやヨハネなどの弟子たち」であり、「他の者たち」が「イエスの弟子となっていない有象無象の群衆」でしょう。

「イエスにつき従っている内輪の者たち」と「イエスとまだ関係性を持っていない=弟子となっていない=外部の人たち」と言えます。

 

エス様を中心として大小2つの円がある。

内側の円にいるのは弟子たちであり、外側の円にいるのが有象無象の群衆たちです。

 

この譬え話は主として「外部の人たち」「有象無象の群衆たち」に対して「神の国」を指し示すために語られているのだ、ということが大事です。

 

「外部の人たち」はどんな人たちでしょうか?どんな動機をもってイエス様のところに集まってきているのでしょうか?

みんなが「御言葉」「神の国の奥義=救いの真理」を求めてやってきていたのでしょうか?そうではありません。

 

マルコの1~3章には、すでに多くの病の癒し、悪霊の追い出し、皮膚病の清めなどの記事がありますが、おそらくは多くの群衆にとっては「イエス様=病気を治してくれる人、何か不思議な奇跡をされる人」だったのではないでしょうか?

 

その不思議な癒しな奇跡のご利益にあずかろうとして各地からおびただしい有象無象の群衆が押し寄せてきていたわけです。また、ご利益を求める群衆たちとは別に、イエスを批判し排除しようと企んでいる律法学者、パリサイ派たちも「外部の人たち」に含まれるでしょう。

 

譬え話はこうした「御言葉」や「真理」を求めようとしていない、イエス様を救い主として求めようとしていない「外部の人たち」に対して、

神の国を指し示し、神の国を求めるように導くため=すなわち、すでに弟子たちが入っている「内側の円」=イエス様と救いの関係に入るように、彼らを招き入れることが目的だということです。

 

マタイの山上の垂訓でも「まず神の国と神の義を第一に求めなさい。それ以外のものは添え物である」と仰られている。現世利益ばかりに目を向けている群衆たちに、まず神の国と義を第一に求める者となるように導き招いているのです。

 

しかし、目に見えない、この世を超越している神の国について、霊的な目が開けていない(弟子たちですらそうだったわけですが)群衆たちには理解することが難しい。だから、この世の身近な物事(農作業、自然現象)などを用いて、目に見えない神の国の真理について理解できるように「譬え」で語るのです。

 

そこで語られる物事、種まき、植物、収穫、羊、放蕩息子の家族関係などは、たしかにこの世の身近な題材から取られているけれども、現実のモノとはかなり違っています。譬え話には常識からかけ離れている点(驚き・違和感)が多々ある。

 

その「ズレ」「乖離」こそが、この世と神の国の違いを指し示しています。譬え話を理解するポイントは「このズレ」がどこにあるかを見い出すことです。ズレに拘ることです。

 

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<種蒔きの譬え -蒔かれた種が落ちた「4種の土地」->

 

種蒔く人が種を蒔いたが、ある種は「土が硬い道端」に、ある種は「土の薄い石地」に、ある種は「いばらの茂る場所」に、ある種は「肥沃な柔らかい良い地」に落ちた。

 

⇒ さて、蒔かれた種は何種類で、蒔かれた土地は何種類でしょうか?

種はすべて同じ種であり、それは「神の御言葉」「福音の宣教」であるということです。

 

そして、同じ種を受ける土地には、4種類の質の違いが存在している。これは語られた御言葉を、聴く側の私たちがどのように受け入れるか?という聞く者の霊的状況を示しているわけです。つまり、神の国の真理、福音はすべての人に対してわけ隔てなく語られているのです。全ての人に「恵み」は注がれる、向けられている。

 

しかし、その同じ恵み、同じ御言葉を、1人1人がどのように受け止めるのか、受け入れるのかには多くの違いが生じるのです。ある人は心が頑ななあまりに最初から受け容れる素地がない。ある人は熱心に御言葉を受け入れしっかりと心に宿そうとする。

 

エス様自身が、この4種類の受け止め方について解説されています。

 

「土が無い硬い道端」とは、そもそも語られる御言葉を拒否している者たちです。律法学者やパリサイ派でしょうか。彼らは心が頑ななあまりにイエスを受け容れる余地がない。御言葉を聞いても、サタンがそれを奪い取っていく。

 

「土が薄い石地」とは、軽薄な態度でちょっとだけ最初だけは関係を持つけれども、少しでも困難や試練に会うと、関係が切れてしまい、それ以上、神の国を求めようとは思わなくなる人、根性無しですね。

 

「いばらの茂る土地」は、肥沃に見えて柔軟に見えるけれども、実際には神の国以外の事柄、この世の様々な価値基準の方が大切な人たちです。一見すると紳士淑女、世的には立派に優等生に見える人かもしれないが、結局のところは「目に見えない神の国や福音の豊かさ」を大切にはしようとしない。この世の目に見える価値ばかりを追求して、御言葉を求める気持ち(霊的な飢え乾き)がなくなっていく人たちです。

 

「良い土地」とは、素直に御言葉を受け入れ、イエス様を救い主として受け入れ、困難や試練にあっても耐え忍び、また、この世の価値基準に揺るがされず、何よりも優先して神の国と義を飢え渇いて求め続ける人たちです。

⇒ あなたはどの土地でしょうか?

 

有象無象の群衆たちに対して、イエス様がこの譬えを語られた目的狙いは何か?

目に見えるご利益ばかりを求める者で終わらずに、目に見えない神の国と義をこそ熱心に求め続ける者となりなさい、という招き導きではないでしょうか?

 

聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉が繰り返されています。これは、聞く耳を持つ者になりなさい。何よりも神の国と義に対して飢え渇く者となりなさい、そのようになり、恵みを受け容れるならば、豊かに実を結ぶことができる、と1人1人を招いておられるのです。

 

この譬え話は、同じプロテスタント教会でも、教派によって解釈が分かれやすい箇所だと思います。「予定説」を強調する改革派(カルヴァン神学)と、聖公会やメソジスト系(ウェスレー神学)の教会とでは受け取り方が違うでしょう。

 

神様の恵みと、私たちの自由意志がどのように関係しているのか?

ウェスレーの「救いの方程式」では、救いの進展 = 神様の先行する恵み + 人間の自由意志による応答 です。

 

「神の恵み」と「自由意志」の関係は、先行して注がれている大きな恵みに対して、私たちが自由意志によって、どう受け取って、それを保ち活用していくか?という関係にあるとウェスレーは考えました。

 

神様はあらかじめ「救われる人」「救われない人」を定めておられるのではなく、全ての人が「御言葉を受け容れる良い地」となるように招き導いておられる。

 

ゆえに無差別に種は蒔かれます。すべての土地に対して、すべての人に、福音の宣教=招きはなされ、神の恵みは全人類に向けられているのですが、差し出された救いの手を握り返すかどうかは、各人の自由意志の応答に委ねられる。

 

⇒ 24-25節には「測りの譬え」が挿入されています。あなたがたの測りに従って、その上に増し加えられる、と語られており、さらに、「持っている人はさらに与えられるが、持たない者は取り上げられるのです」 (タラントの譬えと共通する言葉)

 

⇒ これは「注がれた与えられた恵み」を、私たちがどのように受け取り、保ち、求め続け、恵みを活用していくか?という、人間の側の応答に焦点を当てているわけです。

 

私たち人間の側にも「救いに留まるように」「神の国を慕い求め続け」「受けた恵みを大切にしていく」という、大胆に言えば、継続した「努力」が求められているのです。

 

受け取った「恵み」をしっかりと受け入れて、それを活用していくならば、ますます豊かな恵みを受け取れるように霊的に成長していくが、聞いた御言葉、与えられた最初の恵みを大切にせず、活用もしないならば、やがて受けたものさえも失ってしまう。

 

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<人手によらず大きく成長する種の譬え>

 

⇒ しかし、ややもすると、神様の救いと人間の応答を勘違いするかもしれない。

さきほどあえて「努力」という言葉を使いましたが、これを誤解して、人間が一生懸命頑張らないと救われない、救いとは人間が律法的に頑張って自力で達成するものだと誤解する人が出てくる。自分の努力や成果を誇る傲慢になりかねない。

 

大事なことは、救いの種子、種自体は私たちが作り出すものではないし、種が豊かに成長するのも、私たちの働きの結果ではない、ということです。

それらは全体的に、神様の救いの力、恵みのなせる神秘です。

 

それを示しているのが、後半に記されている26節からの「種の成長の譬え」でしょう。

 

「種の成長」「種のもつ救いの効力」は私たち人間の人手によらない、人知を越えたものです。種の成長には、順序があり、初めに芽、次に穂、最後に豊かな実となる。

しかし、この全ての成長過程を主導しておられるのは、神の恵みの力である。

 

そもそも、芥子種のような微細な小さな種が、なぜ何メートルもの巨木にまで成長するのか、人間がいくら頑張って肥料を与えるからではなく、種自身に宿っている神の力である、ということでしょう。神の国は「目には見えない種子」から最も小さく見えるものから始まるが、やがて大きく成長させて下さる。

 

わずか1粒の種が、良い地で成長すれば、何十倍以上の大きな収穫となりうる。

(⇒ 譬えの驚き、日常とのズレがここにある。実際の農業との収穫の違い)

 

なかなか宣教の芽が出ないこともある。伝道がうまくいかないこともある。

しかし、ここに宣教・伝道における希望を与える言葉があるとおもう。

また、私たちの信仰生活の成長を押し進める土台となる励ましの言葉です。 

私たち1人1人が、蒔かれた御言葉の種を、柔らかい心で受け止め、その成長を待ち望み、神の国と義を切に求め続けるものとして歩んで参りましょう(祈)