福島キリスト教会 から 聖書のメッセージ

日曜礼拝で語られている聖書からのメッセージをUPしています。

「新しい人」を着るように (コロサイ人への手紙 3章)

コロサイ書やエペソ書は「獄中書簡」と呼ばれ、パウロが牢につながれているか軟禁状態にある最中に書かれた手紙と言われています。

 

コロサイ書、エペソ書、またヘブル書などは、どこかの特定の教会だけの個別的問題を扱った手紙というよりも、当時の地域教会を広く指導するために回し読みされることを前提にしていた「公同書簡」の性格が強い手紙です。

 

<コロサイ書の構成について>


1~2章にかけて、コロサイ(トルコ半島)や小アジアの教会で蔓延しつつあった異端の教えについて注意するように警告している。


霊的諸力(ストケイア)崇拝、形式的儀礼主義、極端な禁欲主義 等 ⇒ 現代にも異端は多い。統一教会エホバの証人モルモン教など。それらの異端のどこが間違っているのか?を私たちもきちんと理解しないといけません。

 

3~4章がコロサイ書の中核となる部分で、私たちの掲げている「四重の福音」でいうと「聖化」に関連する部分。

信仰に入ったクリスチャンのその後の歩みについて、どのように考えるべきかの指針(原理)が示されている部分と言っていい。

 

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<「儀式の洗礼」よりも「心の割礼」が求められる>

 

「洗礼」の役割と効果について、もう一度確認しておく必要がある、と最近思わされています。

「洗礼」や「聖餐」は聖礼典(サクラメント)と言われますが、その儀式を受ければ、自動的・機械的に救いに与ることになるとか、天国行きの切符がもらえる、といった誤解をされやすい。

 

聖礼典は、信仰を強めるために備えられている「しるし」であり、信仰そのものに代わる代理物ではなく、信仰を支えて強め維持することを助けるために与えられている補助物(恵みの手段の1つ)です。

 

礼典とは「鍵」で施錠されているプレゼント箱のようなものです。それを開いて、中に封印されている「救い」を受け取るためには「鍵」が必要です。鍵が「まことの信仰と悔い改め」です。

 

自分が罪人だという自覚がなく、キリストの十字架がなぜ自分に必要なのかを自覚していない=本当の意味では信仰も悔い改めも持ち合わせていない人が、形だけ外面的に「洗礼という儀式」を受けたところで、その「礼典」に封印されている中身である救いを受け取ることにはなりません。封印を開ける鍵となる「信仰」が無いからです。

 

何らかの儀式(礼典)を受けることが、私たちの救いを保証して、キリストに結びつけるのではありません。

目に見えない「まことの信仰」こそが救いの鍵であり、あなたはその「鍵」を持っているのかどうか?が問われているのです。

 

また、洗礼を受けて教会員となることは、救いに与る第1歩であり、それ自体がゴールではありません。

 

日本の教会の問題点は、洗礼という儀式を受ければ自動的に救いに与ると考えたり、洗礼という儀式さえ受ければ、もう永久に救いから漏れることがない(天国行きの切符を入手したのだ)という「安易な解釈」が広がっていることです。

ゆえに、洗礼を受けると教会に来なくなる信徒が後を絶ちません。クリスチャンホームにおいても、本人の意志的自覚がまるで無いにもかかわらず「通過儀礼」のような安易な洗礼が行われがちです。

 

罪人である私たちは、いったいどのようにして「神」のもとへ導かれたのでしょうか?

あなたは、どのようにして御言葉を求め、救いを求め、自分の罪深さを自覚するに至ったのですか?


それは先立って、聖霊が魂に働きかけ、内なる渇き、促しを起したからです。まず求めるべきは、まことの飢え乾きが与えられるよう祈ることです。

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<古い人を脱ぎ捨てる>

 

このコロサイ3章は、すでに洗礼に与り教会員となった信徒に向けられています。

3:1あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。
3:2上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。

「上にあるものを求めなさい」とありますが、わざわざそう書かれていると言うことは、裏返して言えば「下にあるものばかりを求めがちである」ということです。

神から目をそらすと目がこの世だけに向けられてしまいます。5節~8節の罪のリストはそうした信仰者の姿を描いています。これは「救われる以前の古い人の性質」です。

 

コロサイやエペソなど小アジアの教会の信徒では大半が異邦人であり、ギリシャ・ローマ的な習慣文化の中で生きていました。

ローマ帝国の貴族の生活は退廃的な酒池肉林の暮らしをしていたことが知られています。だからこそ使徒は「警告」をしているのです。

 

3:5地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 3:7以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。 3:8しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。

 

洗礼を受けて救われた人は、こうした「古い性質」(罪)から瞬時にきよめられ、すでに完全に解放されたのではないのでしょうか?

 

なぜここで「むさぼりを殺してしまいなさい」とか「古い人を脱ぎ捨てなさい」と言われているのでしょうか?

 

それは、洗礼を受けて、救いに与っていても、なお内側には誘惑があり、過去の古い生き方に引き戻す罪の傾向性が働いているからです。

 

罪を赦されたということは、罪の性質がまったく無くなったということではありません。これはプロテスタント教会で誤解されやすい事柄です。

 

私たちはあくまでも「赦された罪人」です。ルターは「クリスチャンの生涯は、日々が悔い改めの継続である」と言っています。

 

上にあるものを求め続けるように意志し続けなければ、地上のあれこれの欲得に絡めとられてしまい、結局は「古巣の生き方」に堕落していく傾向性が多々あるということです。

 

あの人は洗礼を受けてクリスチャンになったとは聞いているが、以前と何ら変わらない。この世的な価値ばかりを追いかけ、いや世の人たちよりもむしろ世俗的で、信仰的な価値観を持っているとは感じないし、救いの喜びを誰かに証しするような姿も見られない。いったいあの人は本当にクリスチャンなのですか?と言われるようにならないようにしたいものです。

 

神への渇き、御言葉と真理への渇き、がどれだけありますか?

「本当に救われた魂」には「内なる渇き」がいつも与えられている。
神のみ声を聞きたい、み顔を拝したい、みこころを知りたいという思いがある。

詩篇42篇」は神への渇きを歌っています。(詩篇42:1~2)
鹿は水がなければ命をつなぐことが出来ません。飲み水を求めるように「霊的な死活問題」です。

渇いているという自覚がある者は、神を求めている者です。

 

ギリシャ語で人間を「アンスローポス」=語源「上を見る者」と言います。人は上を見る存在、神を仰ぎつつ生きる存在です。

神は私たちを造られたとき、神を求める、神と交わるように「神のかたち」を与えられました。神によって造られた「人間」は、本来上である天を仰いで

 

受肉した神のことば、命の与え主であるキリストと常に交わらなければ、私たちの死んでいる霊の命はまったく成長していきません。

 

小学校の夏休みにアサガオを育てますが、水も肥料もやらなければ枯れて死んでいく。皆さんは枯らした派でしょうか、見事に育てて花を咲かせた派でしょうか?

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<新しい人を着る>

 

コロサイ書だけでなく、コリント書でも、ガラテヤ書でも、ペテロやヨハネの手紙でも繰返し言われていることは、

 

「古い人」(罪に汚染された性質)を脱ぎ捨てて、日々「新しい人」を着るように生きなさいという勧めです。これが信仰生活の原理なのでしょう。

あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、3:10造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る 新しき人を着たのである。

天に用意されている「新しい衣」「新しい人」「新しい命」とは何でしょうか?


それは「奥義であるキリスト・イエス」のうちに備えられている「神のかたち」です。

 

キリストとの交わり、御言葉との交わりの中で、霊的に腐敗して歪んで死んでいる私たちを再生し、キリストにある「新しい人」に造り変えて下さる。これが「聖化」という恵みです。

 

(例)磁石は鉄を引き寄せますが、磁石にくっついた鉄自体もやがて磁力を持つようになります。「新しい人」を着るとき、私たちは「キリストとう磁石」に引き寄せられ、私たち自身もキリストの性質を帯びるように変えられていく恵みに与るのです。

 

3:12あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。 3:13互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。 3:14これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯である

 

そうして「新しい衣」を着せられた者は、どのようになっていくのか?

以前は古い性質である罪によって、この世の価値への欲得に惹かれる者でしたが、
「新しく創り変えられ、キリストに似た性質を帯びるようになった人」を特徴づける最大のものは「愛と憐れみ」である、ということです。愛は全ての徳を完成する冠です。

 

この世の価値基準・評価基準は、優秀な者、正しい者、働きの多い者、成果を多く挙げる者を「優れている」と表彰して尊びます。また、自分もそのようであろうとして、自分の働き、自分の能力を誇示して、世の誉れを求めるのです。

 

まるで、何の落ち度もない優等生であるかのような顔をして生きる。世間から「劣等生」のように見られたくない。それは、ユダヤ教パリサイ派や律法学者たちと変わりません。クリスチャンの価値観や生き方がそうであっては困るのです。

 

聖書のいう「謙遜」とは何でしょうか?⇒ 自分の正しさを顕示しないことです。胸を張る生き方をしないことです。自分が足りない、取るに足りない欠けた存在に過ぎないことを弁えている


だから、寛容で柔和なのです。過ぎた自己主張をしないからです。

 

「謙遜や柔和」は消極的な側面ですが、「慈愛と憐れみ」はさらに積極的に、他者を愛して包むものです。あなたはどれだけ「至らない人」を赦すことができるでしょうか?

 

優秀でもなく、正しくもなく、優れた成果もなく、素晴らしい働きも無いような人を、どれだけ愛することができるでしょうか?むしろ、他人のアラばかり探して、これが正しくないと批判して、他人を裁くことばかりをしがちです。「愛は多くの罪を覆う」という御言葉の正反対をしがちです。それは、自分自身もまた罪人にすぎない(罪人のかしらである)という意識が欠落しているからです。

 

キリストの似姿に造り変えられる、ということは、私たちもまた「キリストが歩まれたように歩む」ことです。

 

キリストは神であるのに、人の世の最も低いところにまで下りられて、罪を一身に引き受けて、十字架の苦しみをも引き受けて下さいました。ここに最大の謙遜と柔和があります。

 

罪人である遊女、収税人、羊飼いたちをこそを愛して交わられたように、私たちも多くを赦して受け容れる者として歩む、至らない者をこそ包んで癒して再生に導く者として歩む、ということです。

 

多く赦された者ほど、多く愛することができるのです。

 

「古い人を捨て」「新しい人を着る」ようにと私たちも招かれています。天に備えられている恵みに魂の焦点を合わせましょう。(祈)