福島キリスト教会 から 聖書のメッセージ

日曜礼拝で語られている聖書からのメッセージをUPしています。

「アポカリュプシスー黙示ー」(ヨハネの黙示録 から)

聖書の最後の書であるヨハネの黙示録からメッセージを戴きたいと思う。聖書の中で一番難しいとも言われる書。

何事も「はじめと、おわり」が肝要である。

「創世記」は世界と人間、堕落と罪と救い、すべての始まりを記しており、最後の書である「黙示録」は、世の終わりがどうなるか?を記している書である。

 

長編小説などを読む時に、途中の3巻と6巻だけ読んで後は読まない、というのでは全く意味が分からない。物語の最初と最後はとても重要な役割を持っている。

 

1,緒論

ローマ皇帝ドミティアヌスが激しい迫害を行っていた時代で、初代教会の主だった人々が大勢殉教していた頃である。

西暦65年ごろの皇帝ネロ(放火魔としてクリスチャンをスケープゴートに仕立てた)の迫害も有名であるが、西暦95年ごろのこのドミティアヌスの迫害が歴史上最も過酷だった。

ドミティアヌス帝は、自分を神とし、自分を拝むように命令した。拒否したクリスチャンを、コロセウムで飢えた猛獣に食べさせたり、火炙りの刑にしたり、という悲惨な迫害や殉死を多く行った時代。

現代の私たちは、そのような激しい迫害に遭っているだろうか?

かつては日本の歴史においても江戸時代にはキリシタン弾圧があった。最近、遠藤周作の小説が映画化された。

 

この世において「迫害」が無いことは私たちにとって「幸いだ」とも言えない部分がある。それは、この世との安易な妥協、あるのか無いのか分からないような生ぬるい信仰に陥りやすくなる。

 

迫害時代のクリスチャンの方が私たちよりはるかにしっかりしたぶれない信仰に生きていた。いわば「試練」が信仰の足腰を鍛えて、彼らを「鉄の柱」(by内村鑑三)に変える働きをしていた。

 

それに比べて、現代の私たちの信仰の足腰は弱い。迫害を受けているわけでもないのに、隣人や友人に伝道することを恐れて恥じる。むしろ異端の方が熱心に恐れず伝道しているのではないだろうか。

 

激しい大迫害に初代教会が耐えてきたこと、これは、キリスト教が歴史の中でやがて不動のものになるためには「避けては通れない最初で最大の試練だった」と言える。実際に200年後には、キリスト教ローマ帝国の国教に定められる。

 

だからこそ、神様はヨハネを通してこの黙示を与え、「起きるであろう激しい艱難の中でも、希望を持ち信仰を守り通すように」と励まされたのだろう。

 

ヨハネ自身も迫害によって捕らえられて、地中海にある孤島パトモスに幽閉されていた。ヨハネの直弟子ポリュカルポス(スミルナ教会の監督、ギリシャ教父エイレナイオスの師)はすでに殉教している。

 

迫害され殉教した者たちの魂の叫びが聞こえてくる、という表記が黙示録の中には何度も登場するが、神様がヨハネにこの黙示録を書かせた目的は、迫害の中に置かれている初代教会の人々への慰め、励ましだった。

 

歴史の中で、迫害を通して信仰が不動のものとなったように、私たちの信仰も、揺さぶられ、数々の試練困難を通りながら、本当の信仰へと育て上げられていく。

この書は、あらゆる時代のクリスチャンに向けての励まし、慰め、戒めとなっている。

 

2,「アポカリュプシス」

1節 「黙示」(イエス・キリストのアポカリュプシス)ということばの意味であるが、目に見えないもの、隠されているもの、覆いを取って明らかにすること。

「黙示」という難しい言葉を言い換えると、天啓、啓示、公開といった言葉になる。

しかも、1節に「イエス・キリストのアポカリュプシス」とあるように、これはエス様ご自身が明かして啓示してくださる秘儀であることに注意したい。隠されている天界の秘儀を私たちに明らかにしてくださる方は、復活されたキリスト自身である。

 

キリストご自身が、ヨハネを通して天界の計画、起こるべき未来の出来事のビジョンを見せ、地上の混乱と迫害を超えて、神の勝利が約束されていることを力強く示す。

 

3.「7つの教会へ、7つの霊」によって

ヨハネが「主の日」(日曜礼拝)において、祈っていると天啓を与えられた。「七つの教会へ」というのは2~3章にある七つの教会(エペソからラオデキヤ)である。

「7という数字は完全/全部」(ほかに3は天・地・冥府、4は東西南北・地水火風を示す数であるが)を意味しており、これは、時空を超えた全ての教会に当てられている。

ということは、私たち福島教会に当てても書かれている。だからこそ、いつの時代にも悲しみや苦しみ、悩みにあえぐ人たちへの慰めとなる。

 

4.神々しい「キリストの描写」

12節以降には、天におわすキリストの姿が描写されている。

「7つの燭台」の間におわす「人の子」のような方。髪の毛は雪のように白く、目は燃える炎のよう、足は光輝く真鍮のよう、右手に七つの星を持ち、顔は太陽のように輝いていた。

口から鋭い刃のような剣が出ている、御言葉の鋭さを意味している。

そのお姿は、地上の肉体の姿とは大きく異なっている。来世の天の御国においては、このような輝く栄光の体でおられるということであり、私たちクリスチャンもその復活の命にあずかることで、再臨の日には同じように栄化される、ことが約束されていることを覚えたい。

 

5.「7つの教会」へ宛てられたメッセージ

 最大のエペソ教会から、トルコ半島に円を描くように7つの教会があった。各々の手紙には、主からの賞賛の言葉と、叱責の言葉とが併記されている。

ただし、スミルナとフィラデルフィアの教会は賞賛のみ受けており、ラオデキヤやサルデスの教会は叱責のみ受けている。

地方の小さな教会が前者であり、都会の大きな教会が後者であった。教会の規模・大小と信仰の純粋さは比例しない。

 

母教会・最大教会であるエペソであるが、労苦して励んでいるが、最初の愛から離れてしまった、と言われている。「どこから落ちたか思い起こし悔い改めよ」と言われる

教会もこの世の集団であり組織であるから、大きくなり成長していくと、世的な繁栄と驕りの誘惑が存在している。

主は、組織の大きさを求めておられるのではなく、そこに集う1人1人が本当に純粋で真剣な信仰を持っていることを願われる。

 

ペルガモ、テアテラの2つの教会では、多くの信徒が「異端」や「偽預言者」に簡単に惑わされてしまい、最初の純粋な信仰から離れてしまっていることが責められている。(ニコライ派、バラク派、イゼベルと言う女預言者)純粋な聖書の教えから惑わす異端は常にいつの時代も存在している。

 

スミルナ教会とラオデキヤ教会がとても対照的に語られている。

スミルナは片田舎の貧しい教会であり、

ラオデキヤは商都にあるとても豊かな教会。

 

スミルナ教会は、異端にも惑わされず、激しい迫害にあっても純粋な教えと信仰を守り続けていた。ゆえに、あなたは「貧しいが、実際は富んでいる者だ」と賞賛される。

 

しかし、大都市にある大教会であったラオデキヤに対しては、

 

 3:17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。 

 

と非難されている。この世の豊かさ、この世に妥協して、世に満足して歩む姿に対して、それが本当に求められているあり方ではない、と警鐘されている。

自分が「富んでいる」と思ったら大間違いであり、霊的に見れば最も惨めな貧しい者である。主の「山上の垂訓」の八福の教えを思い起こさせるものである。

 

3:18そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。 

 

ラオデキヤは当時、鉱業、繊維業、薬品製造で栄えていた都市であった。世的には金銀、毛織物、目薬に溢れていながら、霊的には何も持っていないのと同じである。霊的に精錬され、清い衣を纏い、霊の目が見えるようになる目薬を求めよと語る。

 

3:16熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。3:19すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。

 

迫害も試練もない現代だからこそ、私たちは「天の御国」と「この世」の違いが分からなくなりやすい。この世に安易に妥協して、この世の中で満足している者になっていくことで、その信仰は「生ぬるい」「熱くも冷たくもない」ものになりがちである。

 

しかし、そうした「信仰のおぼつかない信徒」を主はお見捨てになられるのではない。

全ての愛している者を「叱責し、懲らしめる」と仰られている。それは「最初の熱心さに立ち戻り、悔い改めを得させる」ためである。そこに主の深い愛がある。

 

3章20節は有名な御言葉であるが、キリストは1人1人の心の戸口に来られて、外から叩いておられる。その声(御言葉)に心を開いて戸を開ければ、救い主を迎え入れることができ、食事を共にすることは「親しい交わり」の証しである。

 

それぞれの教会に宛てた手紙の終わりには、迫害においても信仰を守り、世と安易に妥協せずに信仰的価値観に立ち続けた者に対する、御国における報いを語られている。

 

エペソ:勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう

スミルナ:死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない

サルデス:勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。

 そのような御国の栄光を拝することができるように、この世における困難や労苦の中においても、純粋な信仰に立ち、初めの愛と悔い改めを守り続けて歩んで参りたい(祈)