福島キリスト教会 から 聖書のメッセージ

日曜礼拝で語られている聖書からのメッセージをUPしています。

「放蕩息子の帰還」~ 救いに導く悔い改め とは何か?

2018年3月の礼拝メッセージから【ルカによる福音書15章11節~】

 

<放蕩息子の家出/相続分の生前分与>

父の死後、相続時にもらうはずの「大事な遺産」を父親からもらい受けるとすぐに、父親の元を離れ、遠い異国に出て行ってしまいます。

⇒ 息子は父そのものには無関心だったことが分かる。父親がまだ生きているのにも関わらず、あなたの相続財産を下さいと言うことは失礼極まりないこと。

 

<放蕩で財産を使い果たして困窮する>

父親のいないところに行けば、自分の思うように自由に好き勝手に楽しく生きられると思ったのでしょう。父親と何の関わりもない、家族のつながりも断ち切った生活だった。

 

ここに描かれているのは「父なる神からの離反」です。

聖書の語る罪とは何だったでしょうか?

「罪の本質」にあるものは何か。


私たちを「神から離れさせ」、神を無視して、神と無関係に自己満足だけを求めて生きよう」とさせる性質です。原罪の本質は「神からの離反性」なのです。

 

放蕩息子は、父からもらい受けた「大事な相続分」「遺産」を持っていたはずですが、それはすっかり失ってしまった。彼が父から受けた「遺産」とは何を意味しているのでしょうか?

 

私たちは神様から何を頂いているのでしょうか?

創世記を思い出してください。私たち人間は「神の像」に象って、「神の似姿」となるように目的されて造られたのでした。

 

「神の像」とは、私たちの中にある「神の霊の息」を指している。この「霊」を通して、私たちは神様と交わりを持つことができます。

人間をお造りになった際には、神様自身の霊を人間に分け与えておられるのです。言いかえれば、わが身を削って、自身をも与えられたのです。

放蕩息子の譬えにおいて、莫大な相続分とは何を意味しているのか?

 

それは、人間が神様から与えられている「霊的資産」です。「神のかたち」「神の似姿を反映できる本性」です。そういう豊かな霊的な相続分を与えられている。

 

しかし、放蕩息子と同じように、私たちは、神様との交わりを失ったことで、父なる神から頂いた「霊的財産」である「神の像」「神の似姿」をすっかり喪失してしまいました。

 

莫大な財産をダメにしてしまった。使いモノにならなくしてしまった。腐敗させ壊してしまった、ということです。

 

放蕩息子と同じように、私たち1人1人が「霊的な破産」をしています。ここに来て、私たちはこの放蕩息子と自分自身を重ね合わせて譬えを聞くことができるのではないでしょうか?

 

<「飢餓」「貧困」の中で「いなご豆」で満腹になろうとする>

 

「放蕩息子」のたとえ話では、彼は「豚の食べるいなご豆」を食べてでも、腹を満たしたかった、と書かれています。「いなご豆」というのは豚用の餌です。

ユダヤ世界で、豚は汚れた家畜とされ、豚の飼育には関わりませんでした。それは異邦人の仕事だった。

放蕩息子はその「汚れている豚」の飼育員の下っ端になり、さらには「豚の餌」(いなご豆)でも食べれば、飢えが満たされるんじゃないかと思った、というわけです。

 

人間が本来食べて養われるべきものを食べようとせず、動物のエサを食べて自分を満足させようとしている。ここには「倒錯した欲望」が描かれています。

 

欲するべきでは無い物ばかりを求めて、本来求めるべきものを全く無視しているという「欲望の倒錯」が起きています。これを聖書は「偶像」への傾きと呼んでいるのです。


神との交わりから離れた人間は、偶像(世の被造物にしか過ぎないモノ)によって虚しく自分を満たそうとする「倒錯した病」に犯されているのです。

 

私たちは「ゾンビ」のように彷徨っているのではないでしょうか。
「霊」が死んでいるまま「肉の身体」だけが生きている「霊的なゾンビ状態」なのかもしれません。

 

この「霊的ゾンビ状態」に感染させるウイルスが「原罪」です。この強力なウイルスに汚染されたことで、誰もが「倒錯した欲望」に支配され、その奴隷となって生き続けます。

 

<放蕩息子の立ち帰り=本当の悔い改め> 

 

世間一般の人々は、どうして信仰に至らないのでしょうか?

自分には全く関係がない、「宗教」は特殊な人だけに関係するもので、少なくとも自分については「間に合っている」と思っているからではないでしょうか?自分は「宗教」に入らないといけないほどに、困ってはいない。特殊な問題を抱えている人だけが入ればいいんだと思っています。要するに他人事なのです。

 

しかし、信仰に至るための最初のステップは

「自分自身がどうやら間に合っていない」「癒しがたい倒錯した飢え渇きの中にあるのだ」という事実にまず気が付くことです。(これに気がつかせるのが聖霊であり、御言葉の宣教の働きです)

 

だからこそ、放蕩息子の譬えは他人事ではありません。自分の姿を放蕩息子に重ねながら読まれるべきです。


あなた自身が父なる神の下からいなくなってしまい、霊的な貧困や飢餓の中で死ぬばかりになっている魂であることを語っているのです。
⇒ 放蕩息子はあなたです

 

放蕩息子は、自分の困窮、飢餓、倒錯にはたと気付いて「我に返り」ました。 そして、父のもとに帰りたいと願うようになります。

 

彼の言葉に注目すべきです。

「15:17そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 15:18立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。 15:19もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」 15:20そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。

 

ここには重要な2つのポイントが隠されています。

 

1つは、自分が置かれている霊的な状態(堕落、罪性、倒錯)を徹底して自覚して嘆いており、自分ではどうしようもない=父に助けを求めるしか方法がない、ことを痛感している点です。

 

父のもとに帰りたいけれど、

自分には父に対して犯してしまった非礼と罪を「十分に償えるような何物」をも持っていない。もはや父の「子と呼ばれる資格すらも無い」ような愚か者である。

 

これが、放蕩息子の「自己認識」です。このような徹底した「罪の自覚」を「悔い改め」(痛悔)と言います。

 

聖書の「悔い改め」は、日本語でいう「反省」や「懺悔」とは根本的に意味が違います。

 

「反省」「懺悔」はやってしまった悪を後悔して、二度とするまいと心に刻むことです。そこには、自力で頑張って更生して正しくあることができるのだという自負心があるのです。それは自己解決の思想です。

 

一方で、聖書的な「悔い改め」(痛悔)とは、

自分の陥っている霊的惨状(罪の支配)を徹底して見つめて、どう頑張っても、自力ではその罪の呪縛から抜け出せない、という現実を認めることです。つまり、堕罪の惨状に対する「白旗(降伏)宣言」なのです。

 

自分で何とか問題が解決できる=自分で頑張って自力更生して、神の御前に清く正しく生きることができ、自分の正しさを示して、堕罪の償いをすることができる、などと思っているうちは、そこに本当の「悔い改め」は無く、神のもとに帰ろうという切実な思いもありません。

 

2つ目のポイントは、父に対して何の償いもできないけれども、父の恩情にすがって、父が憐れんでくれるように、父に懇願しようと思って、乞食のように何も持たないまま、父のもとに帰ろうと向きを変えた点です。

 

この「父の元へ帰ろうと向きを変えて歩き出した」ということを、聖書的には「立ち帰る」と表現しています。ギリシャ語ではメタノイアです。

 

このメタノイアは「悔い改め」を指す言葉です。

 

つまり、真正な悔い改めとは、自分が罪に汚染され倒錯した霊的惨状にあることを嘆き、自分には何の償いもできず、自力更生もできず、神の前に差し出すことができる正しさや功績など一切無い、という自覚のうえで、それでも神の憐れみを信じて、神に助けを求めて、魂の向きを変えて戻ろうと決意することです。

 

この「放蕩息子の譬え」は、本当の「悔い改め」とは何か?ということを非常に的確に表現している譬えです。

 

<私たちも「父なる神」の下へ帰ろう>

 

そのようにして、何も持たず、償うことすらできず、息子としての資格もないと思い、痛悔して帰ってこようとする放蕩息子に対して、

 

子の帰りを待ちわびていた父は、遠くから走り出して、豚に汚れた息子を抱いて接吻して迎えるのです。

さらに、父は「最高の着物」を与え、「相続印である指輪」さえ惜しみなく与え ます。

 

私たちが違和感を抱くのは、この父の反応ではないでしょうか?

 

むしろ、普通の感覚からすると違和感を覚える箇所こそ、聖書の福音が明示されている箇所です。

 

父の対応は「あまりにも甘すぎる」ように感じられます。遺産を奪って家出して破産したドラ息子です。昭和ドラマの頑固親父ならばぶん殴って勘当するのが筋でしょう。

 

ここに「父である神」が、失われ堕落した罪人1人1人をどのように憐れみ、愛しておられ、帰ってくることを願っておられるか、という想像を超える「深い愛」「無条件の愛」が示されているのです。

 

父が放蕩息子を「息子として再び受容した」のは、彼が犯した罪を償えるだけの功績を持っていたからでも、立派さや正しさを有していたからでもありません。それはただ「父の憐れみ」による配慮です。

 

私たちの「霊」は何によって養われ、満たされるのでしょうか。
「霊」を養う「食べ物」は何でしょうか。

 「十字架の福音」は私たちを、この悲惨な現状から「救い出す」と聖書は語っています。

 

私たちのゾンビ状態を癒す「ただ1つの薬」は「キリストへの信仰というパイプ」を通して注がれる、神の赦しと清めの霊的な賜物(=恵み)です。


しかし、この「福音」を受け取るためには、それに先立って「自分が、飢え渇いていること、どうしようもない困窮の中にあること」を深く自覚すること(=痛悔/コンクリティオ)が必要なのです。

 

放蕩息子がそうしたように、私たちもまた、父なる神の下に帰りましょう。

 

私たちが父に向かって歩む出すよりも前に、憐れみ深い父なる神は、救い主を世に送って下さったのです。そこに本当の満たしがあり、病んだ霊の癒しと平安があります。

 

あなたが「本来あるべき姿から落ちてしまい倒錯して堕落している自分の姿」を嘆き、悔いて、創り手である父なる神のもとに帰ろうと切に願う心を起すのを、神は待っておられるのです。