福島キリスト教会 から 聖書のメッセージ

日曜礼拝で語られている聖書からのメッセージをUPしています。

生涯全てが「絶えざる洗礼」である(ローマ書7章より)

「洗礼の意味」を振り返る  -しるしと約束-

 

「洗礼」の語源は「水に沈める」という言葉であり、水中に全て沈められて、またそこから引き上げられることを含んでいる。「完全に沈める」と「引き上げる」の2つの要素がそこにある。

 ⇒ ローマ書 6章の「洗礼論」

 

この「洗礼」が「意味」「保証」(約束)している内容は何であるか?

それまでの「古い性質」「罪」が溺れ死ぬ、洗い清められて ⇒ 死・葬儀

キリストが蘇らされたのと同じ「新しい命」に生まれ変わること ⇒ 新生・誕生

 

では「洗礼」が意味し約束している内容は、すでに完成(実現)されているのだろうか?

 

洗礼を受けた私たちのうちには「いかなる罪」も存在しないのだろうか?

「洗礼」によって「すでにもたらされている内容」「約束はされているが、いまだ実現はしていない内容」をきちんと区別しなければならない。

 

また、私たちが「罪」と言う場合に、それが「罪過」(咎)のことなのか、「罪の性質」(罪への傾き)のことなのか、をきちんと意識して区別しなければならない。

 

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<受洗後の「罪性の残存」について>

 

洗礼によってすでに実現している喜ばしいことは何だろうか?

 

・ 罪過(咎)が赦されて、神の怒り・裁きの対象ではなくなった。
・ 神は、私たちを愛すべき子の関係に回復してくださった。
・ 聖なる霊を私たちに吹き込まれて、魂の再生を始められた。

 

「洗礼」とは上のことを証しする「霊的なしるし」であり、洗礼にあずかっていない生まれたままの罪人と、私たちはこの「外的しるし」によって区別されることになる。

 

そして、洗礼によって、約束されているが現実的にはまだ達成されていないことはなんだろうか?

 

・ 罪への傾き、罪の性質そのものが根絶されて、罪を犯さなくなること=完全で不可逆的な聖化の達成


・新しい蘇りの命、霊の栄光の身体に生まれ変わる=栄化されること

 

この働きは着手されたばかりで、死に至るまでずっと継続されている現在進行形の働きである。ゆえに、私たちの全生涯が絶え間なく継続する霊的洗礼でもある。(byルター)

 

洗礼を受けたクリスチャンも「罪を犯す」「罪の傾向性は無くなっていない」ことにきちんと注意しなければならない。もはや自分は赦されたのだから、何をしてもよい、どんなに放縦に生きてもお咎めなしなのだ、と開き直ることが「救いの喜び」なのではない。これはプロテスタント教会において特に誤解されやすいことである。

 

自分にはもはや罪性がまったく存在しないと考えて、罪の性質にあらがうことを怠り、無頓着に生きてよいのだと考える。そのように解釈していると、自分が未だに罪を犯しやすい存在であることに対して無自覚になる。

このことを、ルターもカルヴァンもウェスレーも同じように警告しているし、パウロ書簡でも同じである。

 

実際には、私たちの内には、未信者と同様の、貪欲、高慢、憎悪、姦淫などの罪の欲が起きてくる。肉にあって罪の本性は死んでいないのだから、完全に罪無く清い天使のようになっているわけではない。

与えられた聖霊の働きによって、罪をきよめられた者になることを始めたばかりである。約束に向けて、完全な聖化が与えられるための準備体操が始められたようなものである。

 

「聖化」「きよめ」ということが救いの1つの側面として必要とされるのは、受洗後にも残っている「罪の性質」があるからである。

 

洗礼というサクラメントはすでに行われているが、その効果や約束内容はまだ十分には生じておらず、死と終末によって初めてそれが完成されることになる、ということを正しく理解しなければならない。


<「聖霊による勝利」を求めて生きる>

パウロは、ローマ書の7章において、洗礼を受けていても、以前として私の内に罪の本性が存在していることを嘆いている。

 

⇒ わたしのうちには「罪の法則」があって、私を虜にしている。
 「古い人」と「新しい人」の対立がある。肉と霊の法則(ガラテヤ5章)

 

ゆえに、この残存している罪の性質にあらがって、罪の欲に支配されないで生きていくためには、絶えざる「修練」「鍛錬」を必要とする。罪の性質を滅ぼすように勤めることが生涯にわたって必要となる。

その修練、鍛錬とはどのようなものか?

それは人間的な禁欲や律法的な努力ではない。

 

すでに与えられている聖霊の働きに従うこと、与えられている恵みを最大限に活用することである。この「恵みの手段」を私たちは日々どれだけ活用しているだろうか?

 

たとえ洗礼をすでに受けていたとしても、以前と変わらず、この世の栄華や、この世の価値観にばかり引っ張られ、生まれ持った肉の欲を満たすことばかりを考えて生きているならば、未受洗者と何ら霊的状態は変わらないということになる。

 

洗礼が「古いアダムの死」「葬り」であったように、私たちは日々「古い性質」「肉の原理」に対して、洗礼の意味するとおりに「死に続ける」「葬られ続ける」なければならない。

 

聖霊」が私たちの内に、霊的な再生をもたらす「きよめ主」であり、聖霊が十全に働いて、聖化の働きを進めていくためには、私たちの側にも意志的な応答が求められている。

(cf:ウェスレー神学の救いの定理は、救いの進展=先行的恩恵+自由意志による応答 である。)

 

やがて来る再臨・終末の時に、罪が完全に根絶され、全くきよめられた栄光のからだに栄化される約束が成就されるように、聖霊に従って歩んでいきたい(祈)