福島キリスト教会 から 聖書のメッセージ

日曜礼拝で語られている聖書からのメッセージをUPしています。

あなたも聖なる祭司となって(ペテロの手紙第一 2章5節)

<「万人祭司主義」による「教会観」に立ち帰る>

 

宗教改革プロテスタント教会)の3大テーマはなにか?
「信仰義認」「聖書主義」「万人祭司主義」である。

 

⇒ 中世以前の教会観は「教会」は 聖職者の組織(位階)という考え方で成り立つ。

一般信徒は「教会」の構成要素とは見なされていなかった。聖なる職業と俗なる職業に分離している、という考え方。

 

カトリック教会の「司祭」は聖なる仕事であるが、それ以外の一般人は「世俗の身分」「世俗の職業」に携わる。聖と俗に分割される。

 

⇒ この「聖俗二分化」を否定し、洗礼にあずかった全信徒は、それぞれの賜物や使命に従って、神からの召命を受けており献身をもって応答するべきである。と言い出したのが宗教改革者ルターである。

 

ゆえに、プロテスタント教会では、「牧師」のことを「聖職者」という言い方はしない。単に「教職」と呼ぶ。

そして「献身」と「召命」は「牧師になること」だけを指しているのではない。ホーリネス系の教会においては、この点が往々にして正しく理解されていない。

 

「信徒と教職」の間に、本質的な上下や位階の違いは無い、というのがプロテスタント教会の基本線である。

 

そこにあるのは「職務」と「職分」の違いだけで、神の御前においては「みな等しく働きに召された聖徒」(召命を受けた者)である。そこに「聖俗」の区分という概念は無い。

 

この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。(ペテロの手紙第一 2章5節)

上の聖句が、ルターの「万人祭司論」の根拠となっている。

 

ゆえに、プロテスタント教会の礼拝においては、与えられた信仰の賜物に応じて、各々が、司式、奏楽、求道者の案内、献金、といった各々の礼拝奉仕の働きを担うのである。


⇒ 1つの「キリストのからだ」における「器官」(部分)の働きの違い、という教会観

 

「牧師」の別名は「教職」「教師」「監督」であり、その中心的職務は、

聖書の真理を誤りなく伝えること、みことばを解き明かし、説教を通して聖霊の働きを取り次ぎ、御言葉の糧をもって信徒を整え養うこと、また、聖礼典(聖餐と洗礼)を正しく執行することの2つである。

 

「説教」と「聖餐」プロテスタント教会の根幹である。(⇒教会が教会として機能するための最も本質的な要素)

この特殊な働きのために召され、かつ、必要な賜物を与えられていると認定され、会衆全体からも正しい手続きを経て選び出された代理人が「牧師」である。

(⇒ 教職への召命には「主観的召命」と「客観的召命」の2つの側面がある。ホーリネス系教会は、前者ばかりを強調し「終身免許制」のように考えるが、後者の重みをほとんど注視していない。)

 

あたかも、10人の皇子がいて、王様が急死したので、最も必要な資質を持っているとみなされる1人の代理人を立てるようにして、残りの9人が等しく持っている統治権・職務執行権を1人の管理者に「委託しているだけ」であり、本来的には全ての者が「祭司」や「王」としての権能を有しているのだ、と宗教改革者ルターは考えた。

 

ゆえに、高齢化などで職務遂行に必要な資質・能力が失われたのであれば、すみやかに「教職」を辞して、他の適切な代理者に替わるべきである、という点ではルターもカルヴァンも一致している。

ホーリネスの牧師に多々見られる「召命を受けたのだから一生牧師をやり続けるべきだ」という免許皆伝論は、全信徒祭司の考えからは逸脱している。それは「主観的召命」だけを誇大視しすぎたがゆえの偏見であろう。

 

ということは、裏を返せば、「説教」と「聖餐執行」以外の多様な職務は、牧師以外の全ての信徒にもその働きを託されているということである。伝道活動、病者の訪問、信徒指導(戒規執行)、社会的奉仕(福祉活動)、会堂管理、とりなしの祈りなど、教会には数多くの働きがある。

もし、牧師だけが教会の全ての働きをしていて、他の信徒全ては「お客さん」としての意識しか持っていないとすれば、それは「健全な教会」(キリストのからだとしての教会)の本来の姿ではない。

 

それでは、信徒は誰1人も「献身」しておらず、キリストのからだの一部としての機能をしておらず、ということを意味する。

 

コリント12章、エペソ4章にも「キリストのからだ」の多様な職務が登場する。預言、奉仕、教え、勧め、寄付する、指導する、慈善奉仕をすること。


各々が「恵み」(カリス)によって与えられている「賜物」(カリスマタ)が異なる。

⇒「監督」と「執事」(ディアコノス)が教会の大きな柱となっている。(牧会書簡)

 

歴史的に「執事」(ディアコノス)の働きを担ってきた信徒代表を「長老」と呼んでいる。「長老」の職務はきわめて「牧会者」的である。教会全体の状態をよく管理しつつ、信徒のケアや指導をも含んでいる。ゆえに「治会長老」という別名で呼ばれることも多い。

 

改革派(カルヴァン神学)の伝統にあるプロテスタント教会では、牧師を「説教長老」と呼び、信徒代表である長老を「治会長老」と呼ぶ。

 

すなわち、牧師1人だけがトップに立って一切の教会運営を取り仕切るという考え方を持っていない。共同代表制/共同執行制という視点が強い。それだけ信徒代表が自律的・主体的に教会運営に大きく携わっているのである。

 

残念ながら、ホーリネス教会は「監督制」を取ってきたことの弊害として、牧会の働き、教会の働きを全部「牧師」だけが行うという教会観・職制観に強く縛られている。信徒もそのような牧師観や教会観を当然のものだと考えている傾向がある。

 

ゆえに、個々の教会において、本来的な意味で「治会長老」としての牧会者の働きができるような熟達した信徒が十分に育成されてこなかったし、そうした意識が希薄である。「牧会」の働きを、牧師の独占業務のように考える傾向が強い。

 

しかし、それでは宗教改革の原点である「全信徒祭司」の理念からあまりにも遠いのではないだろうか。

 

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<あなたも伝道の働きに召されている>

 

【例】タイタニック号事故 ⇒ 救命ボートの定員はもっと多かったはず。もっと多くの人が救命ボートで救われるはずだったが、一部の人たちが自己保身からボートを独占してしまい、他の人たちが乗ることができなかった。

 

「祭司」とは、民と神の間に仲介者として立って、両者をとりなす者であった。神を民に紹介するもの、民を神につながる働きを託されている。


だから、全ての信徒が「祭司」であるということは、あなたが「とりなし」をして、まだ救いにあずかっていない方を導くことを神様が願っているということであり、実際にそのような伝道の対象になる人が身近に大勢いるということである。


あなたが福音を伝えて、キリストの救いを証しして、教会に導かなければ「救いにあずかれない人」がいる、ということである。では、あなたはその誰かにとっての「祭司」としての働きを全うしているか?が問われている。

 

私たちが救いにあずかったということは、その救いの恵みを自分だけに独り占めするためではなく、伝えなければ福音を聴くことがない人をキリストに導くために、神様の御旨によって宣教の働きに召されている、ということである。

 

集められ召された者として、1人1人が「献身」をもって応答する歩みをしていきたい。(祈)