福島キリスト教会 から 聖書のメッセージ

日曜礼拝で語られている聖書からのメッセージをUPしています。

人間とはいかなる存在か? 聖書が語る罪とは何か?

2018年2月4日 礼拝メッセージ 【創世記 1-2章より】

 

私たちが偶然に出来上がった存在ではなくて、意味と目的をもって、限りない御愛をもって私たち1人1人をお造りになられた神がいらっしゃる。


創世記の人間論(神がどのような存在として、他の被造物とは全くことなる存在として人を作ったか)には、2つの大きなポイントがある。「神のかたち」と「委託者」

 

① 「人間」の特殊性 

=「神のかたち」に造られた、「霊の息」を与えられた

 

「神のかたち(ツェレム)」「霊の息」を与えられた=これは人間の創造だけに書かれている記述であって、他の被造物には無かった最大の特徴である。
「霊の息吹(ルーアハ)」によって、赤土(アダーマー)の塊に過ぎなかった人は、いのち(ネフェシュ)を持って生けるものとなった。

 

「神のかたち」は言い換えれば、「神様との共通性」を持っているということです。共通する同じものは「霊の息」(ルーアハ)です。

神様の持っている「霊」を私たちも分け与えられている。これが神様と人間を結ぶ「共通性のロープ」「神の像」なのです。


人間は、神様から与えられている「霊」という共通項を通じて、神様と親しく交わる(=呼ばれて応答する)ことができる存在です。これは、他の被造物にはない特殊な能力なのです。だからこそ、動物には宗教はありません。偶像崇拝であれ「宗教」を持つのは人間のみ。


神様からの語りかけ、働きかけを受け止めて、それに答えて、神様と交流する感受性・応答性をもつ存在として、人間は創られている。


さらに言えば、人間とは「神との交わり」の中で初めて存立することができるものであって、自立的・自存的な存在ではないのです。

 

いわば人間存在の中心には「空洞」があって「神様との交わり」によってその空洞が満たされなければ「いのち」あるものにはならないのです。

 

② 「地を治めよ」: 神の代理人・委託管理人

1章28節「他の被造物を治めさせた」

2章15節「エデンの園を耕させ守らせた」

ここに、人間をお創りなった神様の意図、人間にだけ与えられた特別な役割、が示されています。神様はご自身が造られた世界の管理運営を、人間に委託されたのです。

例えば、テーマパークの委託管理を考えて見ましょう。オーナーが管理人(委託人)を雇って管理運営を委託する。委託された管理人は、オーナーの意図を聞いて、オーナーの事業計画が正しく反映されるようにテーマパークを整えて管理する。

地上における「神からの委託管理人」として、御心に従って世界を治めることが「人間の役割・使命」であったのです。

 

こうした委託管理ができるのは、人間というものが神の語られることを聞き、神と親しく交わることができ、神様の御心を理解できる存在だからです。

人間は、ちょうど、神様と世界の中間に居て、それをつなぐ扇の要、蝶番、パイプのような役割を期待されていた。

神様と交わることによって、神様の御心を知り、神様から豊かな祝福を受け取って、世界にそれが広がるように整えていく。神様と被造世界全体をつなぐパイプ、委託管理者としての使命を私たちは与えられていたのです。

「似姿」= 交わりを通して習得される神の属性
神様の属性「愛」「善」「知」などを受け取って反映する被造物

【例】太陽と月の関係: ただの岩塊だが、光を受けて反射する
【例】子供と親の関係: 親の遺伝子を持って生まれ、成長して大人になれば親に似る可能性をもっている。

 

親子が似てくるのは、生活を一緒にしているから。毎日会話する、同じ時間を共有している。同じように、神と人の関係も「日々の交わり」によって深められ、霊的成長によって神様をより深く知り、似た者へとされていくはずだった。


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<「サタンの誘惑」と「堕落のプロセス」>


この「神と人との親密な交わり」を疎ましく思う存在があった。蛇=サタン(誘惑者)、堕天使の存在。神と抗う者。創造秩序の破壊者。

神に成り代わろうとした天使。神の造られた世界を破壊すべく抵抗を続けている。


彼らは、神と世界の結び目(扇の要)である「人間」に目を付けた。
神と人が蜜月で「親しい交わり」を保っているうちは、世界は神の御心の通りになるが、人が神から離反して、神と人との関係が壊れたならば、被造世界全体が混乱に陥る。


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<なぜ「食べてはならない樹」を置いたのか?>

エデン園の中央に「食べてはならない樹の実」(善悪の知識)が置かれている。神様は全知全能なのに、なぜ堕落の原因となるものを置いたのか?

人間は「自由意志」を与えられている。ロボットや動物はそれ以外にはありえない。秩序の強制下にある。ふるまいがプログラムされていて、強制されるなら自由は無い。

神に似た者として創造された人間だけが、「自分で自分のあり方」を決めうる自由意志を持っている。

「愛の交わり」が成り立つのは、お互いに自由な存在同士だからである。その自由は「神に従わない」「神から離反する」可能性をも含んだ「完全な自由」である。

 

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失楽園の出来事・・神からの離反、不信と断絶>

 

①「園にあるどの樹からも取って食べるなと、本当に神が言われたのですか?」(1節)

⇒ サタンは「神のみことば」に対する「不信・疑い」を生み出そうとする。
⇒ 妻エバの回答:「これに触るな」と言った=神の言葉に対する「不正確さ」「揺らぎ」「ズレ」そこにサタンがさらにつけ入る隙が生じる

②「決して死ぬことはない。むしろ、目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(4-5節)
⇒ 神の言葉を否定して、偽りを吹き込む。自分の言うことの方が正しいから、自分を信じよ。ということ


サタンの言葉に従ってみると、(見るに好ましく)⇒ その「サタンの言葉」の方を信じて、信頼すべき 「神の言葉」を退けた。

 

神が禁じた「善悪の知識」とは、神の主権領域(神様だけがお決めになられる基準)を意味している。

サタンの言葉は、この神の主権を無視して、人に自分たちだけで「何が善いか」どうかを判断させるように促すものであった。

⇒ サタンは強制的に人間を従わせていない。巧みに疑い、不信、誘惑を掻き立てて、最終的には人間自身が自由意志でそれを選び取るように仕向けている。「離反」は自由意志をもつ存在の宿命である。

 

③「人とその妻とは、主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」「あなたはどこにいるのか?」(人の自発的応答を待っておられる)


「私は裸であったので、恐れて身を隠したのです」(10節)

⇒ 「裸」=神から離れたならば、人間は何物でもない。
【例】 太陽の光が当たらない月は醜い岩

 

「恐れて隠れる」=神様との親密さが失われている。顔をそむけて逃げる関係になった。「いちじくの葉で恥部を隠す」=自分自身の破れを取り繕う、欠落と覆いの意識。

⇒ 現代人も同じような状態。何かで自分をごまかし取り繕って生きる

神と人との本来の関係性が破壊されて、そこにすでに断絶が生じている。神と人との親しい交わりが断たれてしまい、人は神の祝福を受け取れなくなった。

「信じてつながる」(交流する)ということは、帰属・支配圏の問題でもある。問題は、何とつながっているか、何と交わっているか。

 

それが神か、サタンか。どちらの言葉を信じて従ったかによって、人間を支配する存在が変わった。神の支配領域(エデンの園)から、サタンの支配領域(堕落したこの世)へと移された。人は、サタンに隷属する状態に陥ちて、今に至っている。

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聖書の語る「罪」とは、何か道徳的・法律的な「罪」ではない。


それは、神との「関係性の破綻」「つながりの断絶」「本来あるべき姿の喪失」である。これが「罪の元凶、本質」である「原罪」とよばれるものであり、道徳的・倫理的・法律的な罪は、そこから派生する二次的なものである。


「原罪」の意味を正しく知る必要があり、それが「悔い改めの質」を左右する。

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<堕罪の結果 : 「罪」と「死」、サタンの支配>

人はエデン(神の支配領域)から追放され、サタンの支配下に置かれるようになった。「世の管理委託者」であった人間がサタンの支配下に置かれたことによって、世界もまたサタンの領域となってしまった。(混乱・天変地異・戦争の発生)

神は「生命の源」であり、そこから離れた人間はやがて「死」(肉体・霊的)に至るようになった。

⇒ 家電製品と電源コンセントの関係 (コンセントから抜いてもしばらくは余熱で動いているように見えるが、余熱はやがて失われる)

 

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<ほのかに見える「救いの約束」・・・「原福音」>


「彼はお前のかしらを砕き」(15章)・・キリストによる勝利(解放)の予告
⇒ 人間の側からは、関係の破綻、断絶を修復することはできない。
<神を無視して生きる本性>ゆえに神の方から、人間へと「救いのわざ」がなされる必要があった。

 

旧約のイスラエル時代からキリスト来臨に至るまでの救済史、聖書全体を貫くテーマがすでにここに示されている。

神と人の関係が失われ、人が創造された本来のあり方から逸脱して「失われた存在」になってしまったことが堕罪である。

その「失われた者」「滅びゆこうとしている罪人」を救い出し、失われた神と人の関係を回復させるための「救いの計画と実現」が旧約新約聖書全体を貫くテーマである。

 

しかし、造り主なる神を忘れ去った人間はどうなるのか?
自分が何のために存在しているのか?自分のアイデンティティが分からない。

神に仕え、地上のものを御心に従って治めることが「本来の姿」であったのが、地のもの(被造物)によって、逆に支配されるように落ちぶれてしまった。

聖書が言っている「罪」とは、この歪み、倒錯状態のことを言っている。あるべき姿に無いこと。今や私たち人間は、神様が願われたとおりの在り方をしていない。人間があるべくして本来創造されたところの姿と働きを失ってしまっている。


それが、聖書の語る私たちの罪であり、救いを必要とする現状である。

たとえば、ホットプレートという家電製品を、原始人が見たら何に使うでしょうか?何かの置物をおく台に使うかもしれません。何かを叩くための板に使うかもしれません。(iphoneも同じことが言えるでしょう。手鏡?おなべに入れる?)


製作者は自分が作ったものに「製作意図」「製作目的」を持っています。製作者の意図・目的をまったく知らされていなければ、先ほどのホットプレートやiphoneの例のように、まったく見当違いな使い方をしてしまうでしょう。

 

現代人の多くは、造り主である神様を知らずに生きている。だからこそ、世界の存在目的も、自分自身が何のために生きるかも、まったく分からなくなってしまう。
神様との関係を失って、神様との交わりを持っていなければ、人間はそもそも「自分は何者なのか」「自分はどうあるべきなのか」といった存在意味が分からない。

神様は聖書を通して、私があなたを造った。私の元に帰ってきなさい。私があなたを造られた当初の本来あるべき正しい姿に回復してあげよう、と呼びかけておられる。


私たちは失ってしまった神様との親しい関係を取り戻さなければならない。それが可能となったのは、神の御子キリストが世に来られて、私たちの救いの道を備えて下さったからである。