福島キリスト教会 から 聖書のメッセージ

日曜礼拝で語られている聖書からのメッセージをUPしています。

苦難と不条理の中にあって神を仰ぐ【ヨブ記】

日本人は正月になると初詣に出かけて、無病息災、商売繁盛を願います。

何か「ご利益」が得られるからこそ信じる = ご利益信仰 といわれます。

聖書の信仰は、ご利益信仰と どう違うのでしょうか?

 

先月、詩篇119篇71節「苦しみにあったことは善いことでした」を開いて、信仰者が遭遇する「苦難や試練」の意味について御言葉に聞きました。

 

今日のヨブ記は、苦難と試練を正面から取り扱った書といえます。

 

ヨブ記は全体で42章もあって、礼拝説教ではなかなか扱いにくい書ですが、「ホンモノの信仰とは何か?」「信仰者にとって苦難・試練の意味は何か?」という2つの大きなテーマを追ってみたいと思います。

 

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ヨブ記のプロローグ>

礼拝メモをご覧になりながら、読み進めて参りましょう。

物語のプロローグが2章までです。

 

ヨブはアラビア半島のはるか東の地に住んでいた異邦人ですが、正しく罪を犯さず潔白な信仰者でした。彼には10人の子供たちと膨大な資産(家畜)があった。有名な大富豪だった。

⇒ ユダヤ教においては、正しい人が現世において繁栄するのは当然だった。

 

そこから急に場面が、天上の世界に移ります。

神とサタンのやり取りが描かれている。

神様は、サタンを見つけて、お前はヨブを見ただろう。あんなに敬虔で素晴らしい信仰者はいない、とヨブを褒め称える。

 

それに対して、サタンは「あいつは、現世利益を求めているだけだ。子孫繁栄・商売繁盛しているから信仰しているだけだ。ご利益という目先のエサにつられた不純な信仰にすぎない」と言う。

 

主はサタンに、ヨブに災いを与えることを許可する。(第1幕)

 結果、ヨブは一夜にして10人の子供たちと、莫大な資産を全て失って一文無しになる。

「1:22すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった」(1章20節のヨブの言葉は有名)

 

神様は、サタンを捕まえて、ほらお前はヨブを見たか。ご利益を失っても、ヨブは神を呪わず、信仰深く正しいままではないか?と言う。

 

サタンは、「それではヨブ自身の身に災いが起きても彼は信仰を保つでしょうか?」とけしかける。

主は、サタンにヨブの健康を奪うことを許可する。(第2幕)

結果、ヨブは全身に腫瘍ができて、醜い風貌に変わってしまう。

 

⇒ 悪妻と言いたくなるような奥さんのそしりに対しても、ヨブは敬虔を保つ。

「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。(2:10)

 

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ヨブ記の構造>

ここで話が終わっていて、2章から最後の42章に急に話が飛んでいれば、物語は纏まりのよい単純な構造になる。

 

ヨブという信仰深い人がいて、大変な試みにあったけど、最後は神様に助けられて、以前の何倍もの祝福を受けたんだよ、という単純明快=勧善懲悪の説話になるが、これこそが当時よく知られていた「ヨブのお話し」(古い民話)にあたる。この昔話が「全体の骨格」となっている。

 

ヨブ記は、誰もが知っていた民話を元ネタしたサンドイッチ構造

物語の最初と最後だけが古い民話で、3章から41章にかけての膨大な量の討論は、作者が挿入した新しい部分(預言者文学)だと思われる。

 

例)日本の昔話に「鶴の恩返し」という民話がある。古い物語を下敷きにして、近松門左衛門が「夕鶴」という演劇を書いた。物語の枠組みは民話から借りているが、盛られている内容はまったく新しい作品になっている。それとよく似ている。

 

この新しい挿入部分は、ヨブと3人の友人による論争(31章まで)、エリフの語り、神の語り(41章まで)とすべて対話編であり、戯曲や演劇のような文学形式になっている。

ヨブ記の中心は、3章から41章の挿入部にある。

 

作者は不明であるが、もしかしたら預言者エレミヤやイザヤなどに近い人物だったかもしれない。思想的には「預言書」にきわめて近い内容が盛り込まれている。

旧約時代から新約時代へと移り変わろうとしている境目=預言者の時代に、それまでの旧約律法、ユダヤ教の限界を乗り越えていこう、新約の救いを待ち望むための道備えをしよう、という意識が現われている。

 

古い時代のユダヤ教(旧約律法)では、あくまで現世において、正しい者が栄えて祝福され、悪しき者が罰を受けるという「因果応報」論が主流だった。

 

そして、死後の世界に対する意識は薄い。死んだら終わり、この世にいる間が花よ、という来世観だった。

 

ヨブ記や預言書は、そうした古い旧約時代から超え出て、新約の福音へと準備させる前段階の働きをしている書といえる。

 

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<3人の友との討論 = 因果応報論に対する批判>

 

3章からヨブの姿が急激に変化する。それまで無かった嘆き、訴えるヨブの姿

「ヨブの嘆き」 ⇒ 自分の生まれた日を呪う。(神を直接批判しているのではない)

3:3 わたしの生れた日は滅びうせよ。

3:4 その日は暗くなるように。

3:11 なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか。

  

4:7 考えてみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか。

4:8 わたしの見た所によれば、不義を耕し、害悪をまく者は、それを刈り取っている。

8:4 あなたの子たちが彼に罪を犯したので、彼らをそのとがの手に渡されたのだ。

8:6 あなたがもし清く、正しくあるならば、彼は必ずあなたのために立って、あなたの正しいすみかを栄えさせられる。

 

 友人たちの主張は、繰り返し「因果応報」「苦しみは悪の報いである」

⇒ しかし、ユダヤ教的な因果応報論は、ヨブにとって何の慰めにもならない。

 

ちなみに、ヨブ記を読む際の「お約束」(前提)について

(1)ヨブは最後まで、罪を犯していない「義人」として読むこと(罪なく正しい人)

(2)神とサタンの天上におけるやり取りは、最後までヨブには隠されている秘儀(神秘)であること、に着目する

⇒ 友人たちの議論に乗っかって、ヨブもきっと隠れた罪を犯したに違いないと読むと、ヨブ記の主旨からは外れてしまう

 

ヨブの問い: 「正しい者」が苦しみを受けるのはなぜか?

友人の言葉: 「正しい者」が苦しみを受けるはずがない。ヨブは罪を犯したのだ。

⇒ ヨブと3人の友人の討論はずっと水掛け論、平行線で交わらない

 

ヨブの直観では、自分は罪を犯していない、神の前に正しく敬虔に歩んだ信仰者である、にも関わらず、神ご自身が私を打たれ、試みと苦しみを与えておられる。

それはなぜなのか?この苦難の意味は何なのか?

ヨブは神ご自身に問いたい。

 

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<世の不条理>を訴えるヨブ⇒ 因果応報論への問題提起

 

21:7 なにゆえ悪しき人が生きながらえ、老齢に達し、かつ力強くなるのか。

21:8 その子らは彼らの前に堅く立ち、その子孫もその目の前に堅く立つ。

21:9 その家は安らかで、恐れがなく、神のつえは彼らの上に臨むことがない。

21:17 悪人のともしびの消されること、幾たびあるか。その災の彼らの上に臨むこと、神がその怒りをもって 苦しみを与えられること、幾たびあるか。

 

24:4 貧しい者を道から押しのける者がある。世の弱い者は皆彼らをさけて身をかくす。

24:9 みなしごをその母のふところから奪い、貧しい者の幼な子を質にとる者がある。

24:10 彼らは着る物がなく、裸で歩き、飢えつつ麦束を運び、

24:11 悪人のオリブ並み木の中で油をしぼり、酒ぶねを踏んでも、かわきを覚える。

24:12 町の中から死のうめきが起り、傷ついた者の魂が助けを呼び求める。しかし神は彼らの祈を顧みられない。

  

あなたがたは「因果応報」と言い、義人が必ず神の祝福を受けて栄えると言うが、現実の世を見ればそのようにはなっていない

むしろ逆ではないか?

悪人が栄え幸いを得ながら、善人や弱者が虐げられて苦しみに置かれている。

 

どこに神の正義はまっとうされているのか?

なぜ「神の裁き」はこの世において徹底されていないのか?

神は「この世の不条理」をなぜ「放置」しておられるのか?

 

(例話)星野富広さん:器械体操中に頭から落下して首を骨折する、全身不随になった。なぜこんな不条理が私の人生に起きたのか?このような人生にどのような意味があるのか?

 

(例話)横田さきえさん:娘めぐみさんが失踪(北朝鮮に拉致される)。人生における不条理や苦難とどのように向き合っていけばよいのか?ヨブ記を読む中で信仰に導かれた。

 

信じさえすれば何でも自分の願いどおりになり、望んでいた物が与えられるわけではない。聖書の信仰はそのようなご利益主義ではない。

 

信仰者にも「苦難」「不条理」は訪れる。

真面目で敬虔な人が原因不明の病になったり、なぜこんな悲惨な出来事が起こるのか?と思う場面に多く遭遇する。

そんな時に、私たちもまたヨブと同じような嘆きと訴えを持つのではないだろうか? 

 

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<黄泉(シェオール)と「来世」の問題>

14:7 木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、その若枝は絶えることがない。

14:8 たといその根が地の中に老い、その幹が土の中に枯れても、

14:9 なお水の潤いにあえば芽をふき、若木のように枝を出す。

14:10 しかし人は死ねば消えうせる。息が絶えれば、どこにおるか。

14:14 人が もし死ねば、また生きるでしょうか。

 24:1 なにゆえ、全能者はさばきの時を定めておかれないのか。

   なにゆえ、彼を知る者がその日を見ないのか。

  

善人か悪人かに関わらず、死ねば全員が黄泉(シェオール)に集められるならば、どんなに長寿を与えられても、現世において祝福を受け繁栄しても、最終的には同じではないか?

人の齢は草花のしおれるような短い間にすぎない。死ねば同じ。

 

⇒ ユダヤ教は非常に現世的な宗教。この世を超えた「目に見えない霊的世界」(=形而上の世界)を説かない。

「黄泉」(シェオール)は暗くぼんやりとした影のような陰気な世界である。

この世において、正しく善人に生きても、悪の限りを尽くして生きても、最後は<同じ行き先>に集められて、薄暗い黄泉に漂うことになるではないか。

 

この世を越えた「来世」「天国」「永遠の命」「神の最終的な裁きの徹底」にヨブの希望は向けられているが、旧約時代を生きるヨブはまだそれをはっきりとは知らない。

⇒ 啓示として与えられていない。「新約の啓示」はキリストによって開かれた。

 

世の終わりに至って、神が最終的な審判を与えて、善に報い、悪を罰する裁きが貫徹されなければ、因果応報はこの世(現世)においてだけでは完結しない。

 

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<神と人をとりなす仲介者=メシアの到来を待ち望む視点>

 

9:11 見よ、神がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。

9:32 神はわたしのように人ではないゆえ、わたしは彼に答えることができない。われわれは共にさばきに臨むことができない。

9:33 われわれの間には、われわれふたりの上に手を置くべき仲裁者がない。

16:19 わたしの証人は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある。

16:20 わたしの友はわたしをあざける、しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。

16:21 どうか彼が人のために神と弁論し、人とその友との間をさばいてくれるように。

 19:25 わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。

19:27 わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。

  

神と人との間にあって、とりなし、私たちを贖ってくださるお方が来られる。

⇒ 救い主(メシア預言)を望む、旧約の中に新約の光が差し始めている時代。(例えば、バビロン捕囚以降の預言者たちの時代か?)

 

神は「天地を司るお方」であり、人間からはあまりに遠すぎる。どうやって神と会い語ろうことができようか。自分も身の潔白を訴えることすらできない。

 

⇒ せめて仲介者がいてくれれば、というのがヨブの訴えの1つの頂点をなしている。

⇒ 来世観、終末論、仲介者キリストの待望、など「預言書」の指し示す新約福音への予表と、ヨブ記は共通したメッセージを持っている。

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<エリフの語り=神の登場を道備えする「預言者」の言葉>

 

友人たちとは別人のエリフなる人物がにわかに登場する。彼は平行線を辿っている両者の議論から視点を向けかえて、神の登場を待ち望む準備として挿入されている。

いわば、作者自身の言葉、預言者の言葉(神の賛美)として読むことができる。

 

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<「人間が知りえない領域」に回答=神の摂理 がある>

 

38:3 わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。

38:4 わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。

38:16 あなたは海の源に行ったことがあるか。淵の底を歩いたことがあるか。

38:17 死の門はあなたのために開かれたか。あなたは暗黒の門を見たことがあるか。

38:22 あなたは雪の倉にはいったことがあるか。ひょうの倉を見たことがあるか。

38:23 これらは悩みの時のため、いくさと戦いの日のため、わたしがたくわえて置いたものだ。

38:31 あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。

 38:25 だれが大雨のために水路を切り開き、いかずちの光のために道を開き、

38:26 人なき地にも、人なき荒野にも雨を降らせ、

38:27 荒れすたれた地をあき足らせ、これに若草をはえさせるか。

  

39:13 だちょうは威勢よくその翼をふるう。

39:14 これはその卵を土の中に捨て置き、これを砂のなかで暖め、

39:15 足でつぶされることも、野の獣に踏まれることも忘れている。

39:16 これはその子に無情であって、あたかも自分の子でないようにし、その苦労のむなしくなるをも恐れない。

39:17 これは神がこれに知恵を授けず、悟りを与えなかったゆえである。

39:18 これがその身を起して走る時には、馬(戦車)をも、その乗り手をもあざける。

 

41:1 あなたはつり針で レビヤタン をつり出すことができるか。糸でその舌を押えることができるか。

41:2 あなたは葦のなわをその鼻に通すことができるか。つり針でそのあごを突き通すことができるか 

41:10 あえてこれを激する勇気のある者はひとりもない。それで、だれがわたしの前に立つことができるか。

41:33 地の上にはこれと並ぶものなく、これは恐れのない者に造られた。

41:34 これはすべての高き者をさげすみ、すべての誇り高ぶる者の王である

  

ついに、神が現れ、ヨブに語りかけ、ヨブに問われる。

お前はこれこれの事柄について知っているか?

なぜそうであるか分かるか?

その秩序と摂理を解明できるのならば言ってみるがよい。

 

「人間が知りえない領域」がどれほど大きく広いかをお示しになられる。

 

人のいない「不毛の荒野」にすら雨を降らせられる。

人知には無駄に思えること。

人間の考える合理性や効率性とはおよそかけ離れている出来事。

 

自分の産み落とした卵と子供を踏みつけ忘れ去るだちょう。

野生の動物の愚かさ。(人間の合理性から見れば愚かでしかない)

 

しかし、その愚かさの反面に、人知の及ばないような強力な野生の能力(戦車の馬をも飛び越える跳躍力)を主は与えておられる。

 

⇒ 人間中心の世界観ではおよそ知りえない神の摂理の一端を開示している。

 

極めつけはレビヤタンである。

人間世界を壊滅させることさえできる悪魔の獣のように忌み嫌われている存在ですら、人間の傲慢を砕く道具としてペットのように飼い慣らし、神は用いられるのである。

 

人間にはおよそ、その全貌も、秩序と摂理と目的に想像もつかない。

しかし、すべては創造者である主の御手の中に在り、かつ「御心」「ご計画」のうちに保たれている。

 

「主のご計画、御心、秩序」と「人間の思い描く秩序(合理性)」はまったく異なる、ということが「神の語り」が指し示している事柄だろう。

 

人間理性が知ることができる真理とは、啓示されている神のみわざと計画のほんの一部にすぎない。人知には知りえないことのほうが多い。

 

 ⇒ 神は「ヨブの訴え」に対する「回答・解決」を与えているわけでない!

事の端緒となった「天上における出来事」(=神とサタンのやり取り)は、最後の最後までヨブには明かされていない。

その意味において、自分の「苦難の原因と意味」は分からずじまいなのだった。

 

ヨブの悔い改め:「何も知らず、神の摂理を暗くしたことを悔います」

⇒ これが「ヨブ記の解決」となっている。

⇒ 全知全能の主なる神に「全幅の信頼」「御心に委ねる信仰」に導かれた

 ⇒ 自分が知らない領域に、今は分からないが「本当の解決・答え」がある。

 

穿った見方をするならば、神が最後に語ったレビヤタンの存在は、「サタンの暗躍」をなぜ全能の神が容認されているのか?というテーマをも連想させるものである。ヨブの苦難は、そのサタンに原因があるものであった。

 

レビヤタンをも摂理の下に飼い慣らす主は、反逆者であるサタンすらもご自身の救いの計画と摂理の内に治めておられる。悪ですら善に創り変えるお方である。全知であり愛をもって最善をなさる神ゆえにこそ。

 

さて、人間は目には見えない「天の国」のことを直接は分からない。

死後の裁き(世の終わり)についても具体的なことは知らない。

人間の地上おける生涯は、前後巻が分からない長編小説のほんの一部分だけを読んでいるようなものかもしれない。

 

人間に隠されている世界、神の摂理がいかに広大であるか?

 

ヨブと違って新約時代の私たちは、その一部をキリストを通して啓示されているが、

来世も、神の裁きの徹底についても、ヨブと同様に現代の私たちにとっても「目で見ぬ出来事」である。

 

そして、まだ見ていない事柄だからこそ「信仰」と「希望」をもって私たちも待ち望むのである。

 

さらなる信仰の成長・深みへと促される書がヨブ記である。

 

いかに私たち人間に隠されている秘儀、神だけが知られる摂理と秩序の大きいことでしょうか。私たちは、愛にして善である全知なる神様のご計画に信頼して、その御手に委ねる一歩進んだ信仰の成長へと導かれますように(祈)