福島キリスト教会 から 聖書のメッセージ

日曜礼拝で語られている聖書からのメッセージをUPしています。

一粒の麦として(ヨハネ12章20節)

本日は四旬節第一主日です。レント(四旬節)に入りました。

ヨハネ福音書では12章前半からエルサレム入城の場面となっています。本日の箇所(20節以降)はエルサレム入城直後の出来事を描いています。 

異邦人=ギリシャ人の改宗者がイエスに会いにやって来た。

 

これは、キリスト教が狭いユダヤ社会、民族宗教に留まるのではなくて、全ての人類=異邦人に開かれた普遍的・世界的な宗教となっていく最初の始まりを告げる出来事と言ってもよい。(ちなみにピリポは使徒行伝で異邦人伝道に携わる国際派)

 

共観福音書を見ても分かるように、それまでの宣教対象は、わずかな例外を除けばほとんどがユダヤ人=イスラエル社会内部に限定されていた。

(例)ガタラ地方のゲラサ人、フェニキアの女、サマリヤの女 など少数例にすぎない

 

ユダヤ教自体はきわめて閉鎖的・民族主義的な宗教であった。

エルサレム神殿の構造を見ても、異邦人は聖所(神殿中心部)には入れてもらえない。神との親しい交わりの外に締め出されている構造になっている。

 

ヨハネは、キリストのもとに異邦人がやって来たことに大きな意味を与えている。

「人の子が栄光を受ける時が来た」=「十字架の死と復活がなされる時の到来」

異邦人が救いにあずかるようになったこと自体が、十字架の死と復活の契機になる、という理解。

 

⇒ 十字架の出来事において、至聖所と聖所を隔てる幕が裂かれたことを想起させる。ユダヤ人かどうかといった民族性とは無関係に、キリストを信じる者ならば、誰もでも主なる神と直接、至聖所と同等の「霊の交わり」に加わることができるようになった。(参照:ヘブル書)

 

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<「一粒の麦もし死なずば」>

 

さて、本日の中心聖句は、24~26節にかけての御言葉。

 

12:24よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。

しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 

12:25自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。 

 

有名な「一粒の麦の譬え」が出てきますが

この「一粒の麦」はいったい何を指し示しているのでしょうか?

 

指し示されているものが「2つ」あることに注意して頂きたいのです。

 

まず1つ目は、言うまでも無く、エス様ご自身の十字架においての受難と復活です。

十字架の死と復活とは、いわば、「麦の種の発芽」のようなものである、と仰られている。

 

古代人にとっては、種自身が死ぬ=外殻が壊れることで芽が生まれる、という感覚があったのでしょう。

種が種としての存在様式に留まらないで(=従来の自分の存在様式を自己放棄して)、自分自身を保護して守っている「外殻」を破壊・放棄して、まったく新しい形態へ生まれ変わる。そして、新芽が吹き、その命がさらに成長すれば、茎となり、枝葉となり、穂ができ、実を結ぶにようになっていく。

 

古い性質(=罪の支配力に隷属して腐敗している古い霊性が十字架に釘付けられて滅ぼされ、一方で、新しい霊的生命を与えられ、まったく新しい実質へと復活する=甦る=変貌する。

その様子を、麦の種の死(殻の崩壊)と、そこから芽吹いて再生される新しい生命になぞらえている。

私がこれから受ける「人の子の栄光」すなわち「十字架における受難と復活」は、この「麦の種」のようなものである、それによって、私につらなる者に「新しい命」を与えるものだ、と教えているのです。

 

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<「十字架の死と復活」への「参与」に招かれる言葉>

 

「一粒の麦」の譬えは2つのことを指し示していると言いました。

1つ目はイエス様ご自身の十字架の受難と復活ですが、もう1つは何でしょうか?

それは、私たち個人の側における「十字架経験=死と甦り」です。

 

つまり、この「麦の種」の譬えは、私たち個人とはまったく無関係な場所で起きた、遠く離れた外部の出来事=他人事としての「キリストの十字架」だけを意味しているのではない、ということです。

 

12:26もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。

 

キリストが十字架で受難を受け、栄光の復活の命に与ったように、

キリストを救い主として信じ、御言葉に従おうとする者全てに対して、あなたがたも同じように歩みなさい/生きなさい、と主は薦めておられる。

 

では、私たち個人においての「十字架」とは何を意味するのでしょうか?

 

⇒ この聖句を理解するための参考箇所として、ローマ書6章4~5節を参照したい。

 

 6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

 6:5もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

 

キリストの十字架のみわざをどのように理解するか?

十字架の恩恵がどのように私たち個人の救いに関わるのか?

というテーマを「贖罪論」と言います。

贖罪論には、聖書的にも、歴史神学的にも、いくつかの類型があります。

 

一番よく知られているものは「刑罰代償説」という考え方です。

私たちの罪の身代わりとして、犠牲の供え物となり、罪の贖いをなして下さった。このキリストの犠牲(=義の転嫁)によって、信じる者には神の刑罰と怒りは及ばない。

 

これは、十字架における「罪の赦し」とは何か?(=罪責の解決)ということをよく解き明かしています。

 

しかし、この贖罪理解(=刑罰代償説)においては、十字架の出来事は、ある意味では、私たちの外部で起きた遠い出来事、いわば他人事であるということになります。

 

自分が関与しない遠くで起きた出来事、イエス様が身代わりになって下さった出来事のおかげ(功績)に預かって、私自身は何もしないけれども、キリストの義が、信仰という空の管を通して私に転嫁され、罪を赦されて神の怒りを免れる、というのが「代償説」の理解です。

 

歴史的には、西方教会カトリックプロテスタント主流派)はこの贖罪解釈を中心に掲げてきました。「贖いと赦し」に十字架の最大の意義を置いてきた。

 

(cf:典型例は中世アンセルムスの贖罪論 ⇒ バルトの贖罪理解にも深く影響した)

 

しかし、十字架の贖罪理解には、これとは違う系統の理解の仕方もあります。

もう1つの有力な解釈が「参与説」というべき考え方で、主として東方正教会が十字架の意義を解釈する際に用いる枠組みです。

 

「参与説」の特徴は、十字架の出来事は私たちと無関係などこか遠くの出来事、すなわち他人事なのではなくて

 

あなた自身もキリストの歩まれた十字架の道を辿り、キリストが万人に拓かれた「救いの道」=「十字架の死と復活の道ゆき」に「参与」していくように招かれている、という理解です。

 

「十字架の死と復活」の出来事を、罪に侵食腐敗された古い人間性の死滅であり、新しい霊的生命の授与(=神の像の再生)と考えて、そこに「参与」していくことで、魂の再創造がなされる「交わりの場」と神秘的に理解するのです。

 

(注意:これは単なる「道徳的模倣説」ではありません。キリストが十字架でなされた救いの恩恵のみわざに、内的・霊的に結び合わされることによって生じる神秘的な救済体験霊的再生=再創造の救いであって、それ自体は「神の恵み」「十字架の恩恵」によるものであって、単なる人間的努力や道徳的模倣ではありません。)

 

救いにあずかる実質(=罪によって腐敗した霊性の刷新)は、キリストの道行き=十字架の死と復活の出来事に、私たち自身が意思的に「応答」して「参与」していくことの中にある、と理解するのです。

 

いわば、神がキリストを遣わして、「十字架の死と復活」という「救いの磁場」を備えて下さっており、

その「救いの磁場」「霊的な神と人の交わり」への招きに対して、私たち1人1人が意志的に応答して「参与」していくのです。

 

この贖罪理解に立つと、25節以下の御言葉の意味がより深く分かるのではないでしょうか?

 

キリストが十字架で古い罪の命に死なれて、新しい霊の栄光の命に蘇られたようにして、私たちも「キリストの歩まれたように」

古い自己=この世と妥協して生きようとする自己愛的原理に死んで、天から与えられる目に見えない霊的生命の豊かさに生まれ変わる。

 

そうすることによって、信徒である私たち1人1人も、

罪の性質(古い腐敗した霊性)に死んで新しい霊の命を内側に宿して質的にまったく違う新しい生き方をすることが可能となる。

 

「参与説」は、罪の性質からの解放と自由魂の実質的変化を説明することに主眼が置かれている贖罪理解である、と言えるでしょう。こちらは「代償説」とは見ている「救いの側面」が違うのです。

 

(cf:東方神学ではこれを救済論の観点からは「神化/神成/テオーシス」と表現しています。ウェスレー聖化論の背後にはこうした神学があります)

 

(cf:贖罪論には幾つかの類型があると言いました。「代償説」「参与説」以外にも「勝利説」(解放説)などがあります。重要なことは、このいずれか1つの解釈類型だけが正解で残り全てが間違っているわけではないということです。

西方では「刑罰代償説」が主流だったのに対して、東方では「参与説」「勝利説」が主流派となってきた歴史的経緯があり、東西教会における贖罪論・救済論の微妙な違いとなっています。これは同じ1つの富士山を東から眺めているか、西から眺めているかの違いのようなものです。聖書全体はそれぞれの贖罪類型を「立体的に内包」している統合体だと理解すべきでしょう。「救い」とは多面体のようなものです。)

 

さて、私たちは何もしないで放置しておくと、無意識にぼーと生きているだけだと

「この世と妥協して、この世の目に見えるあれこれの中に喜びと誉れを見い出す古い様式の生き方」に容易に流されてしまう。

(前回も、上流のガリラヤ湖から、下流死海へ流されてしまうヨルダン川のお魚の話をしましたが)

 

「地の塩」として(この世の腐敗を防ぐ役割に)生きるべき存在であるにも関わらず、魂の内側からすっかり塩気を失ってしまうことがありうる。

 

キリストが恵みによって備えて下さった「新しい霊のいのち」に与って生きるためには、私たち1人1人の側においても、意志的な「応答と参与」が必要となる。

 

共観福音書では「私についてきたいと思うならば、あなたがたも日々自分の十字架を負って、私に従ってきなさい」(ルカ9:24等)と主は言われる。

 

これは、キリスト教における「自己否定の必要性」を示す御言葉だと思います。

プロテスタント教会では「安価な恵み」に偏った聖書解釈に走りすぎたあまりに、こうした「健全な自己否定の原則」が見失われがちです。

そうすると無律法主義、霊的無法状態に陥りやすい。もう罪が赦されたんだから、どんなに無頓着に生きても構わない、何をしてもお咎めは無いのだから、と誤解して開き直る困った人たちが出てくる。

 

教会史では「修道」や「修練」という言い方によって「キリストに倣って歩む」という教会内部の霊的伝統がありました。

 

(cf:トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」などのカトリック系の霊性修養の神学から、ウェスレーは大きな影響を受けています。)

 

この世における自己保存、利己的な関心によって世的な自己に囚われ、それを愛する者は、

かえって本当の自己(=霊的な新しい命)を失ってしまい、恵みによって与えられようとしている「キリストにおける歩み・生き方」を見失ってしまう。

 

そうならないためには、信仰者1人1人の側でも、神様が下さる恵みがどのようなものであるかにしっかり目を止めて歩み、

この世を愛する自己愛的生き方を放棄して、目に見えない霊的な生き方(神と人への愛)を求めていく「応答と参与」が必要になる。

 

ちなみに、日本語訳では「一粒の麦」と訳されていますが、原語では「1個」という限定はなくて、むしろ「麦の種一般」というニュアンスの言葉になっています。

すべての麦の種」がそういうものであるように、わたしたち「全ての人間」がキリストと同じように、という文脈で語られている、と理解するべきではないかと思います。

 

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<「光があるうちに歩んで、闇に追い付かれないようにしなさい」>

 

残念ながら全ての人がそのような歩みをして、キリストの備えられた道を歩んで「備えられている救いの実質」に意識的・応答的に参与する者とはならない。当時のユダヤ人の多くはそうだったわけです。

 

35光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。 12:36光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい

 

せっかく救いの光が輝いているにもかかわらず、この世の目に見える幸いと誉れの方を重んじてしまい、結果として、救いの恵みを疎かにして応答しない(=恵みの受容を拒んでしまう)人もあるだろう。

 

そういう人は、自分が結果として「霊的な闇の中」に逆戻りして迷子になってしまうことに気がついていない。

 

霊的な盲目=悟りの無さ=本当の悔い改めの欠如、がそこにある。

 

「救いに至る門は狭く、そこから入ろうとする者は少ないが、滅びに至る門は広く大きく、そこから入っていく者が多い」

 

そうならないように、あなたがたは、光のあるうちに、光の中を歩みなさい、とキリストは言われる。

 

私たちも、キリストが召しておられる光の内を歩むことができるように、光の子として新しい霊の命の豊かさの中を生きることができるように、聖霊様の助けを祈り求めて参りましょう。(祈)